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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
苦しみは心が生み出す

苦しみも幸せも自分の心が生み出す。そして、苦しみとは自分の存在が否定された時に感じる。

でも、仏教から言ったならば、自分の存在を否定する存在も自分の心が生み出した映像。
自分の作り出した映像に自分が恐れ、避けるから。いつも恐れているものに自分が追われ、自分の存在さえも否定されているように感じて苦しむ。

私たちは自分の心によって生み出した映像と向き合い、恐れを取り除かなければならないのだが、唯識が分からない私たちは現実の相手が自分を苦しめていると感じて、その相手を否定したり、小さく見たり、軽く見ることによって、自分の心を楽にさせようとしてしまう。

そうやって、相手に送った思いは自分に跳ね返り、自分が相手を否定したならば、否定されているように感じて苦しむし、相手を無視したならば、自分が今度は無視されているように感じて苦しむ。
すべて自分が相手に向けて放った感情は自分へと跳ね返り、自分を苦しめる。

他人は結局、自分であり、どんなに相手が自分の存在を否定してきたとしても、自分は相手の存在を否定せず、自分で自分の存在を否定することもしない。そうすることによって、どんな環境にいても、苦しむことのない心の境地へと出ることができるのです。




なぜ火塗の人は自分か他人かになるのか
では、なぜ火塗の人は自分か他人かどちらかしか存在してはならないと思っているのか。

それは百パーセント自分が正しくなければ、思いを通すことはできないと思っているから。
この人は正しい人が間違っている人に対して思いを通すことができると思っている。だから、自分が正しくなければ思いを通すことができないから、いつもは色んな思いがあっても、我慢している。そして、我慢して我慢して、段々苦しくなると、どうしても思いを通したくなって、相手のことが悪く見えるようになる。

それは相手が悪者になれば、自分は正しい所に立って思いを通すことができるから。だから、自分が思いを通したいから相手のことを悪く見る。そして、その悪を責めて、相手に間違いを認めさせようとする。この時、少しでも相手が反論しようものなら、徹底的に相手を責める。
そうやって、この人はどちらが上かどちらが下か、ハッキリと白黒をつけようとする。そして、自分が上であることを見せつけようとする。

それはひとえに安心して自分の思いを通したいから。自分の思いを通すときに相手に反論されたくないから。

ただそれだけの為に相手を無力化してぐうの音も出ないようにする。
本当は相手に反論されても自分の思いを通す方法を知らないだけ。子供の時に親の言うことを聞くだけで、自分の意見を聞いてもらえなかった人がこの境界に堕ちる。
自分が思いを通す為に相手を否定するから、自分も否定されているように感じて苦しむのだが、それが分からないから、自分の造った苦しみの世界の中でいつまでも苦しみ続けなければならないのです。

火塗
苦しみを生み出す心の世界に三塗という言葉がある。三塗とは、火塗、刀塗、血塗の三つ。

まず、始めの火塗とは、私の心の世界が火で覆われた世界。火とは怒りの心。この人から見たならば、世界に映る人はすべて自分のことを嫌う人たちのように見える。自分なんかいなくなればいい。その方が楽だし安心だ。この人がいても迷惑なだけだ。この世からいなくなってくれたらいいと見える。

実際はそのように相手は見ていないかも知れない。でも、その人の心にはそのように映る。だから、自分も相手なんかいなくなればいいと思う、“あっち行け、出ていけ、消えてなくなれ”と思っている。
いてもいいのは自分の思い通りになる人間だけ、それ以外は自分の世界から出て行って欲しいし、消えてなくなれと思っている。これが火塗の世界。
自分か他人か、そのどちらかしか存在してはいけない世界。自分が存在する為には相手の存在を否定しなければならないし、どうしても存在したいならば、自分の思い通りになれと思っている。
自分の思い通りになる間はこの人好きと思って近づくが、一度でも思い通りにならなかったならば、手のひらを返したように、敵意を見せ、怒りをぶつける。そして、相手が負けを認めて、自分の言いなりになるまで、それは止まらない。これが火塗という世界なのである。

善にも二種類ある。
仏教には善と言っても二種類ある。

一つは心から相手の幸せを念じてやる善と、もう一つはやらないと責められるから責められたくないと思ってやる善がある。

ほとんどの人は善をするのは、責められたくないから善をしているのではないでしょうか。

それは多くの人が小さい時に善をしなさいと注意されてやらされてきたからだと思います。

責められたくないから善をしている人は、善をしていない人を見ると責めたくなる。その心は自分だけ善をしなければならないのはおかしい、お前も善をするべきだと思う心。

このようにやらない人を責める善は、仏教では善とは言わない。黒縄地獄にはまっている人だと言われる。

だから、この黒縄地獄にはまっている人にとって善をすることは喜びではなく苦しみでしかない。

やらないと自分の心の中にいる鬼が自分を切り刻むから、切り刻まれたくないから善をしている。だから、どんなにやっても幸せになるどころか、人生が苦しみに変わる。

世の中には善と言っても黒縄地獄の善をやっている人が多いから、頑張って善をやればやるほど、やりたくないという思いになる。

仏教で教えられる善とは、一度その素晴らしさが分かったら、死ぬまで続けたいと思うもの。なぜなら、善をやること自体幸せだから。

そして、善をやっていない人を見ても、どうしてやらないんだと責める心はなく、やったらいいのにと残念に思うだけ。

世の中、善をしない人を責めてやらせるのではなく、善の素晴らしさが分かる所まで教えてゆくことができたら、もっと幸せな世界ができるのになと思わずにはおれません。

まずは善ができなくても、自分も他人も責めないことですね。
まことの善をしてこそ
仏教では、雑毒の善を問題にして、雑毒の善では、浄土に往生することはできないと教えられる。

ここで、雑毒の善とは何か?と言えば、毒とは煩悩のことであり、煩悩の混じった善を雑毒の善と言われる。つまり、善とは心から相手の幸せを念じてやらなければならないのに、心の中では自分のことしか考えない。善をしない相手を責める心で善を勧めたり、他人から認められたい、評価されたいと思って善をしているとか。これだけ善をすれば、相手から色々してもらえるだろうと見返りを期待する心で善をすることを雑毒の善と言う。

世の中では、雑毒の善も善は善だから、やった方が善因善果で善い結果がやってくるのだから、やるべきだという人がいるが、仏教では、雑毒の善も善だとは教えられない。

じゃあ、やらない方がいいのかと言えばそうでもない。仏教では、自分の心が不純であると気付けば気づくほど、自分の不純な心を懺悔して、純粋な心でやらなければならないのである。

そうしなければ、自分の本当の姿は知らされることはない。

親鸞聖人が自分は悪しかできないと仰ったのは、心からまことの善をしようとされたからであり、雑毒の善でも善は善だからやってもいいんだと虚仮雑毒の自分を許していたならば、悪しかできない自分を知らされることはなかったと思います。

心を込めて、相手の幸せを念じて接する。

その心が純粋なものでありたいと思ってやり続けることが仏教の善であり、自分の心が知らされ、不純一杯だと知らされるほど、これではいけないと純粋な心で善をしてゆかなければ、私たちは浄土に往生することはできないのです。


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