幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
あわれというもなかなか愚かなり

多くの人は、様々なものに我をつけて自分のものにして我を拡大してゆくことが人生だと思っている。

でも、どんなに我を拡大しても、死んでゆく時には何一つ持ってゆくことはできない。

必死になってお金を手に入れ、財産をかき集め、家を建て、地位や名誉を手に入れたとしても、すべて置いて、丸裸になって死んでゆかなければならない。

みんないつか自分も死んでゆかなければならないと思いながら、本当に自分が死ぬと誰も思っていないから、必死になって死んで置いてゆかなければならないものばかり、かき集めている。だが、いざ自分が死んでゆかなければならないと分かると、自分の人生を振り返って、“俺は一体何をしていたのだろう”と後悔の涙を流す。蓮如上人が白骨の章で“あわれというもなかなか愚かなり”と言われるのも、私たちが必死になってかき集めたものをすべて置いて死んでゆかなければならないことがあわれであり、それは先を見る智慧がないところから起きる愚かさから来るものなのだと思いました。


定善と散善

よく時間を大切にと言われるが、時間を大切にしようとして、少しでも時間があったら、仕事を入れて暇な時間を無くしても、それは本当の意味で時間を大切にすることにはならない。

何故なら、どんなに忙しく身体を動かしたとしても、それだけでは後には何も残らないからだ。

仏教では、定善と散善が教えられる。定善とは、仕事ややるべきことに追われて、忙しくなった心を一旦手を止めて、心を静めること。つまり、心の中が一杯詰まっている状態から離れ、心を無心にしようとすること。そうすることで、静めようとしても、静まらない心が見えてくる。それが今自分がとらわれていることであり、自分が取り組まなければならない課題。次に散善とは、定善によって知らされた自分の課題を解決できるように今日一日過ごすこと。

どんなに忙しく身体を動かしていても、それで自分自身が成長できている訳ではない。定善によって自分の課題を見つけ、それを散善という日常生活を通して解決してゆく。

食べるという字は人が良くなる為にと書く。せっかく生きているのだから、毎日の生活を通して成長してゆかなければ勿体ない。忙しい時ほど、心を静めて自己を見つめる。そういう心の余裕はもってゆきたいですね。 


心の中に鬼がいる

正義を振りかざす人ほど、自分の中に鬼がいる。鬼とは悪いものには罰を与えなければならないと思う心。その鬼が悪を見つけたならば、自分も他人も関係なく、責めて、その悪を正そうとする。その鬼があまりにも強いと、常に自分自身を自分で決めた常識に当てはめて行動するようになる。そこには自分の自由意志は一切認められない。それどころか、自分の中で常識に合わないことを思ったならば、容赦なく心の中の鬼が自分を責める。だから、責められたくないから、常に自分の正義に従って動くようになる。そして、身の回りで自分の常識に合わないことをしている人がいたら、怒りが吹き上がり、その人を責めて、自分の中の常識に当てはめようとする。ここで怒りを起こすのは、それだけ自分の心が鬼によって責められているから。だから、目の前に悪い人がいるから怒りを起こすのではない。自分をいつも責めているから、怒りを起こす。これが分かったならば、怒りを起こしたときに、こんな悪い人間がいるから、怒りを起こしたのだと思うのではなく、こんなに怒りを起こさずにはおれないほど、自分を責めてきたのだと思えるようになる。他人を責めている人は、責めている相手以上に自分を責めてしまっているのですね。


賽の河原

親から心を育ててもらえず、体は大人になっても、心は子供のままの人がゆく心の世界が、賽の河原。そこでは子供が必死になって、「一つ積んだら父のため、二つ積んだら母のため」と石を一つ一つ積み上げてゆく。そうやって、ある程度、石が積み上がると、鬼がやってきて、無情にも積み上がった石を崩す。

そうすると、また泣きながら、子供は石を積み上げてゆくという世界。

では、ここで子供はどうして石を積み上げるのかと言えば、そうやって積み上げることで、親から認めてもらえると思っているから。

つまり、親から認めてもらう為に頑張っているのが賽の河原。この子供は頑張らなければ親は認めてくれないと思っている。そこで石を積むと、親は認めてくれるかと言えば、せっかく石を積んでも認めようとはせず、もっと頑張れと勧める。そこで子供は親に認められたい一心で、もっと石を積む。じゃあ、そうやって親は認めてくれるかと言えば、もっと頑張れというだけで、親は認めてはくれない。だから、子供は親に認められたい一心で、もっと石を高く積んだら認めてくれるのではないかと思って、頑張り続ける。でも、どんなに頑張っても、親は決して子供のことを認めない。ただここができていないじゃないかと、出来ていない所を注意するばかりで、子供が頑張ったことを認めることはしない。そうやって、子供は親に認めてもらいたい一心で、高く高く石を積み上げてゆく。やがて、高く積み上がった石は無常の鬼によって崩させてしまう。そうすると、子供は泣きながら、親に認めてもらいたい一心で、石を積み上げてゆく。これが賽の河原。

子供は親から認めてもらうことによって、心が育ってゆく。でも、どんなに頑張っても、親が認めてくれないと子供は心は幼いまま、体が成長して大人になる。

このように精神的に子供の人は、何をするのも、こうすれば、親は自分のことを認めてくれるかどうかで頑張るようになる。

金持ちになったら親は認めてくれるか、会社で出世したら親は自分の存在を認めてくれるのではなかろうか。そうやって親から認めてもらう為、親を見返す為に頑張り続ける。

そうやって、この人の人生はいつも親を問題にして、親に認めてもらう為だけに生きて、自分は本当はどんな人生を生きたかったのかという自分の人生を見失う。

そして、年を取って自分の人生を振り返ったときに、自分は一体何のために頑張ってきたのだろうと、自分の人生が虚しくなる。 

認めてもらうことは、心の栄養。その栄養を与えられずに育てられるといつも心の飢餓状態で生きてゆかなければならない。そして、親は子供のことを認めようとはしない為に、頑張っても頑張っても心は満たされない苦しい人生を生きてゆかなければならない。

確かに子供のことを認めてあげなければ、認めてもらいたい一心で子供は頑張る。でも、その認めてあげることを人質に子供を頑張らせることは、何をやっても満たされない心の餓鬼を生み出すだけなのですね。悲しい事です。


他人に気を遣う人

よく相手のことを気を遣って自分の思いを言わない方がいいという人がいるが、接している側から言えば、ちゃんと自分の気持ちを言ってくれた方が嬉しい。言ってくれたら、相手はこうして欲しいんだと思って、相手の思いに応えてあげることができるけら。相手のことを気を遣う人は自分に色々な思いを抱えていても、それを気を遣って言わない。そうやって、我慢にしていたらいつか相手は気づいてくれると思っている。でも、相手は気づいてくれない。だから、気を遣う人は不満が溜まる。やがて、それが怒りとなって相手を責める。相手に気を遣って自分の思いが言えない人はいつまでも気を遣って言えないまま、言うときは怒りで相手を責める。

相手に気を遣うことも大切ですが、自分の思いは我慢せずになるべく相手に伝えてゆけたらいいですね。




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