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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
なぜ死にたくなるのか
人はどんな時、死にたくなるのだろうか。それは自分なんかここにいても意味がないと思った時に死にたくなります。

それは自分はここにいてはいけないと思うからです。

本当は自分がここにいてはいけない理由なんてないのに、自分の存在がみんなにとって迷惑に感じられて死にたくなるのです。

だから、そんな人にとって自分の存在を肯定してくれる人が必要です。

つまり、自分のことをいて欲しいと思ってくれる人です。

人はこの人の為に生きていなければならないと思うからこそ、頑張って生きてゆける。その人の存在が生きてゆく意味になるからです。

私たちは自分を肯定したいと思っています。ただ根底に自分を否定する心がある為に生きていてはいけないと思ってしまう。

自分なんかいてもいなくても同じなんだと思うことが死にたくなる元なんですね。
冷たくされた時が勝負
時には相手に温かい言葉をかけたのに、冷たい態度をとられることがあります。

そんな時、こんなに冷たい態度を取られるなら、もう温かい言葉をかけることはやめようと思ってしまうものです。

でも、そんな時、考えて欲しいのです。温かい言葉をかけたのは、温かい反応をしてもらう為なのかということを。

温かい言葉をかけるのは、それをかけることによって自分の心を温かくする為。

だから、たとえ温かい反応をしてもらえなかったとしても、幸せになる為の種まきだと思って続けてゆく。

幸せは善い種まきを続けてゆくことで得られる。相手に温かい言葉をかけたからと言って、必ずしも温かいものが返ってくる訳ではありません。

その時、どう思うか。それによって幸せになれるかどうかが決まる。

これは自分の為にやっているのだから、善い種まきを続けてゆこうと思うか、それともせっかく温かい言葉をかけたのに、温かいものが返って来ないなら止めてしまおうと思うか。この選択によって運命は大きく変わります。

幸せになる人とは、どんなことがあっても善い種まきを続けてゆく人。自分の種まきが未来を生み出してゆくと信じている人です。

冷たくされた時こそ、自分の心が試されている時だと思って頑張ってゆきたいですね。


浄土は果たして幸せなのか
みんな死んだら浄土へ往って、穏やかで平安な生活ができると思っています。

しかし、生きている時の現実の生活は、いつも時間を欲で埋めて、何もない静かな生活をしている人はいません。

いつも時間ができると、テレビをつけて、見たい訳でもなく、テレビを見る。そうやって老後を過ごしている人が多いのではないでしょうか。

いつも時間ができると何かで埋めて、静かな環境で過ごしたことのない私たちが、もし死んで浄土へ往って、煩悩を掻き立てることのできない時間を過ごすとしたら、果たしてそれは幸せなのでしょうか。

多くの人は時間ができると、その隙間の時間に欲を入れます。テレビを見たり、スマホを見たり、いつも多くの時間を欲に流れて過ごしています。

そんな人たちが欲を満たす縁がなくなったのなら、どう過ごすのだろうかと思います。

きっと時間を過ごすことが苦痛ではないかと思います。

だから、死んで浄土へ往きたいと思ったならば、まず欲から離れて、欲に流れることの無い時間を過ごすことに慣れてゆく必要があると思います。

欲から離れて、それでも穏やかに過ごすことができたならば、その時、本当の意味で浄土へ往く為の準備ができたのだと思います。

欲に慣れた人にとって欲のない世界は苦しい。しかし、その苦しみが苦しみでなくならなければ、本当の意味で穏やかな生活を送ることはできないのではないかと思いました。
死を受け入れることができた
私は説法で仏法を語りながら、自分ではあまり聴聞していませんでした。それを聴聞を通して見たくない真実が見えそうで、いつか見なければならないと思いながら、その日が来るのを先送りにしていました。

では、その見たく真実とは何かと言えば、必ず死んでゆかなければならないということです。

私はいつかは死んでゆかなければならないと思いながら、それはまだまだ先のように考えていました。そして、そうやって考えていれば、まるで死なないことがあるじゃないかとさえ思っていました。

しかし、仏法が知らされてゆくと、だんだん人は必ず死ぬ、自分も死んでゆかなければならないと知らされてゆきました。

そうすると、欲に流れて時間を過ごすことが勿体ないことに感じられて、意味のあることに時間を使わなければならないと思うようになりました。

そして、世界には何もない、自分の心だけが続いてゆくのだと知らされてきました。

そして、自分を変えてゆく為に聴聞がしたいと思うようになったのです。

仏法は心を変える教え。心が変われば見える世界も変わる。そういう意味で、聴聞とは心の旅行をしているものだと感じます。

人生は限られている。その限られた時間の中で、自分を少しでも変えるために、仏法に触れていたいと思うようになりました。

人生で意味のあることは自分を変えること。幸せな心になる為に仏法に触れ続けてゆきたいと思います。
悪くても謝らない人
人は他人には悪いことをした時には謝りなさいと言いますが、自分が失敗して他人に迷惑をかけても謝らない人は多いです。

きっと自分の中で言い訳をして、自分は悪くないのだと思っているから、謝ることをしないのだと思います。

しかし、自分の中では謝らなくてもいいことにしても、相手にしてみたら、何で謝ってくれないのだろうと思うものです。

そして、口には出しませんが、謝ってくれない人に対して信用しなくなります。

だから、自分は特に悪いことをしているつもりはなくても、人が近づいてきてくれないなあと感じます。

人は心を大事にしてくれる人に近づいてゆく。

謝ること一つできない人は、人の心は大事にできない。

それは如実な結果となって現実で受けてゆかなければならないのです。


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