FC2ブログ
幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
他人を非難すればするほど、自分を駄目にする
他人を非難するとその言葉は自分に跳ね返る。誰が責める訳でもないが、声なき声がじゃあ、お前はどうなんだと責めてくる。だから、他人を非難する人ほど、正しいことをしなければならないと思うようになる。そして、自分の作り出した正義に従って行動するようになる。ところが、この正義は他人を非難すればするほど、ハードルが高くなる。ちょっとの悪も見逃さずに厳しくあれは悪いと非難するほど、じゃあ、自分はどうなんだ、自分はできているのかが問題になり、やがて自分の作り出した正義に耐えられず、逃げるようになる。
こんな人の心では、お前は駄目だ、お前は生きる価値なしという声が鳴り響く。
だから、真面目に頑張ることができずに欲に逃げる。欲に逃げれば、逃げるほど、心の中でこんなに欲に逃げて決められたことも守れない奴は駄目な奴だと言われているような気がして、余計腐ってゆく。
この人は自分の作り出した正義を守らないと普通の人間ではないと思って、守れない自分は駄目な奴だと思っている。だからと言って、自分は駄目な奴だと思いたくないから、現実と向き合うことから逃げている。逃げても現実は変わる訳ではないのに、目を背けていれば、今だけでもぬるま湯に浸かって楽だから、楽な方へ楽な方へと逃げてしまう。
本当は自分が決めた正義に従えなくても駄目な人間ではないのに。
まわりを駄目だ、駄目だと見るから、自分も駄目な奴となってしまうことに気づかないのですね。
悪い奴を探すより
苦しんでいる人はみんな自分の感情を吐き出せずに苦しんでいる。苦しんでいる人ほど、心の中に汚い穢れが溜まっている人。それを吐き出して誰かに受け止めてもらったら楽になるのに、吐き出すことができない。それは自分の中に正義があって、自分が心で思っていることが自分の中の正義に照らし合わせて悪だから、そんな悪いことを思っているものが自分だと思いたくないから、吐き出すことができない。でも、自分の心の中では醜い感情が溜まっているから、吐き出して楽になりたい。だから、無意識のうちに他人のことを悪く見る。他人の言動が気になって、他人を責めて、その相手に感情をぶつけたいと思う。そうやって、他人を責めて感情を吐き出すことがたできたら楽になる。でも、相手が頑張っていたり、正しいことをしていると、相手よりも自分の方がお粗末だと知らされて、大上段に立って、他人を非難することができない。そうなると自分の中で汚い感情が溜まっていく。心の中では、他人の悪いところが目に付きながら、自分もきちんと生きていないことで、自分を責めて、こんな自分が嫌い。死にたいと思うようになる。
本当は誰かに自分の感情を受け止めて欲しいだけなのに、それを悪い奴にしかぶつけてはならないと思っているから吐き出すことができない。
でも、悪い奴にぶつけたって、楽になるのは一瞬だけ、相手は受け止めてくれる訳ではないから、また、すぐに苦しくなる。
苦しみは自分の気持ちを受け止めてもらった時に楽になる。悪い奴を探すよりも自分の気持ちを受け止めてくれる人を探すことができたら、心は楽になるのに。
悲しいことです。
苦しんでいる人は他人のせいで苦しんでいると思っている
苦しみは自分の心から生み出される。中でも一番苦しむのは、自分の苦しみの原因を他人のせいにすること。
この場合、他人のせいにして、他人を恨んだとしても、自分の感情を相手が受け止めてくれる訳ではない。
確かに苦しみを他人のせいにすると、その時は心が楽になったように感じるが、どんなに他人のせいにしても、現実は何も変わらないから、変わらない現実を目の当たりにした時に、自分の無力さが知らされて余計苦しくなる。
苦しんでいる人は自分は変わらずにまわりに変わって欲しいと願う。願うというよりも苦しいから早く世界が変わって欲しい、そうなれば楽になれるのにと思う。
しかし、世界を否定しても、世界は変わることはない。たとえまわりの人が気を遣って、自分の望むように動いてくれたとしても、苦しみは自分の心から生み出されるから、苦しみは何も変わらない。苦しみは誰が悪い訳でもない。すべて自分の心に原因があると認めて、苦しい気持ちを誰かに吐き出して認めてもらわなければ、苦しみがなくなることはない。
なぜ苦しい人はその苦しみを他人のせいにするか分からないが、苦しんでいる人ほど、他人のせいで苦しんでいると思っている人なんだなと思いました。
相手は自分だと思って与えてゆく。
仏教とは、相手の為に尽くす教え。相手が望んでいることを気持ち良くやってあげる。そうすると相手は安心して自分のことを馬鹿にするようになる。自分がやるのが面倒臭いことをやらせようとしてくる。
人間とは安心すると馬鹿にするようになる。自分でやれることも相手にお願いしてやらせようとする。仏教とは、そうやって相手から馬鹿にされても、軽く見られても、それでも気持ち良く相手の為にやってあげる。
それは何のためか?それは目の前にいる自分のことを馬鹿にしてくる人こそ、私の姿だから。私も安心したら相手のことを軽く見る人間。自分でできることも他人にやって欲しくて、お願いしてしまう人間。だから、目の前の自分のことを軽く見ている相手こそ、自分。その自分が気持ち良く過ごすことができるように目の前の相手が自分だと思って、施してあげる。私たちは自分が望んでいることをまず自分が味あわないと思って、独占するから、どんなに自分がいい思いをしても、心が苦しみ満足できない。幸せは与えることによってしか味わうことはできない。自分がやってもらって嬉しいことを相手を自分だと思って与えてゆく。そこからしか幸せは得られないのだと思いました。

苦しんでいる人
人はなぜ苦しむのだろう。多くの場合、自分の中でいろんな感情が溜まっているのに、それを吐き出すことができず、吐き出すことが悪いことのように感じて抑え込んでしまう為に、その感情が苦しみへと変わって苦しんでしまうように感じる。
このように苦しむ人ほど、子供の時は親の言うことをよく聞くいい子だった人が多いと思う。それは、いい子ほど親の感情に敏感で、親が望むことをしたい、親が嫌がることはしたくないという気持ちが強い。だから、自分の中に負の感情が溜まっても、親に嫌な顏をされたくないという気持ちから我慢してしまい、心の中でその感情が腐ってしまったのである。この腐った感情が苦しみ。この感情は外に向くと刃のような怒りとなり、他人を批判する。でも、批判しながら、批判ばかりして変わろうとしない自分も嫌いだから、自分に対しては責めるのではなく、こんな腐った自分はいなくなった方がいいと見捨ててしまう。この人の目に映るものは、これもダメ、あれもダメと否定することばかり、でも、否定したからと言って、その相手が変わる訳ではない。そうすると、変わらない相手を見捨ててゆく。そして、自分のことも見捨ててしまう。このような人が苦しみから離れる為には、自分の言ったことを直そうと努力して、それでも直らない人が必要。その人のことを馬鹿にして、批判しながら、その相手は自分の元から離れない。自分は自分のことを見捨てながら、どこかでそんな自分を見捨てず、付き合ってくれる人を探している。そんな人が自分のことは嫌いなのに、好きだと言ってそばにいてくれると、だんだんと感情が吹き上がり、ぶつけたくなってくる。感情をぶつけるとは、感情を吐き出すということ。感情を受け止めてくれる人の存在こそ、苦しみから離れる近道じゃないかと思いました。


プロフィール

上田祥広

Author:上田祥広
管理サイト
浄土真宗講義



最近の記事



ブログランキング

FC2ブログランキング



最近のコメント



カテゴリー



FC2カウンター



ネットサーフィンの鉄人

ネットサーフィンの鉄人



ブログ全記事表示

全ての記事を表示する



RSSリンク



てくてく…



お友達のブログ

このブログをリンクに追加する



グリムス