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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
心の中の鬼は死んでも追いかけてくる
人間頑張ってきた人ほど、自分の間違いを認めることができず、謝ることはできない。
自分は悪いことをしていないのだから、謝る必要はないと思っています。たとえ自分の言動によって相手が傷ついているとしても、悪いのは相手の方だから、謝ることなんてないと相手の気持ちをはねつけてしまう。

でも、自分は間違ったことをしていないと思っている人ほど、心の奥底では自分は間違っていると思って、自分を責めている。いや単に責めるどころではない。責め続けている。だから、自分の間違いを認めてしまったならば、自分の心の中にいる鬼が自分の心をズタズタに引き裂くから、自分の間違いをもう認めることはできない。

でも、その心の中の鬼は自分の心が生み出した鬼だから、たとえ自分の肉体が滅んだとしても、自分を追いかけてズタズタに心を引き裂く。

自分を苦しめているものは結局のところ、自分。そして、そんな自分のことを許してあげるのも、また自分なのである。確かに自分は間違ったことをしたのかも知れない。でも、私は自分なりに一生懸命生きてきたのだ。もう十分苦しみました。確かにあの時に戻ってやり直すことはできないけど、自分が一生懸命に頑張ってきたことは、誰よりも自分が分かっていること。

もう自分のことを許してあげませんか。そうしなければ、自分の心の中にいる鬼はあなたを追いかけて、あなたを苦しませ続けるのです。すべては仕方のなかったこと。それで自分を責めても、誰も幸せにはなれません。許してあげて下さい。あなたは十分に苦しんできたのだから。
不安になるのは
不安は自分が自分の存在を否定する所から生まれる。将来に対して不安を感じることも、将来思い通りに人生を生きられないと思うからであり、思い通りにならない人生を歩む自分を否定しているから不安になります。

私たちは思い通りに生きられない自分を否定すれば、思い通りに生きることができると思っています。それは否定すれば思い通りにならない自分は消えると思っているから。

でも、現実はどんなに否定したとしても、思い通りの人生を生きられる訳ではない。だから、思い通りにならないのではないかと思うと、思い通りにならない自分は否定されているので不安になるのです。

不安にならない為にはどんなに思い通りにならない自分を否定しても思い通りになる訳ではないと知ること。思い通りになりたかったら、努力するしかないと明らかに見ることが大切です。

そうやって種まきに徹して、それでも思い通りにならなかったら、仕方ないと思い通りにならない人生を受け入れることができる。そこに不安はありません。

不安になる人は、思い通りにならなかったらどうしようと思うだけで、思い通りになりたいと思って努力しない。本当に思い通りになりたかったら努力するしかない。種まきしてこそ、自分の望む未来に近づくことができるのです。
存在価値で大事なことは謝ること
仏教では、存在価値を問題にされる。存在価値とは、存在と価値ということ。存在とは、他人から見てもらうことによって自分はここに存在しているのだと感じた時、安心するということ。私たちは自分を感じた時に安心する。自分がここに存在しても自分を感じられないと不安になり、まわりの人を傷つけてでも、自分を見てもらおうとする。

でも、そんなことをすると、他人は自分のことを見捨ててきそうに思うから、普通はしません。でも、相手に対していい顔ができなくなり、怒りを起こしたりして、見せたくない自分の姿を見せてしまうと、こんな自分の姿を見せてしまったから、自分のことを見捨ててくるのではないかと疑いが起きる。

そうすると見捨ててくる相手に対して、いい顔をすることはできなくなり、どうせ見捨ててくるならと思うと、相手を傷つけるようなことを平気でするようになる。それは傷つけた方が相手は自分の方を見てくれるから。だから、あからさまに酷いことは言わなくても、自分の言動で相手が傷ついてもいいと思って行動するようになる。そこにはどうせあなたは私を見捨てるのでしょうという思いがあるからです。

本当は見捨てられたくない筈なのに、一度悪い顔を出してしまうと、こんな自分を相手は見捨てるのではないかと思ってしまう。

こんな時に自分から近づき、謝ることができたら、どれだけ心が楽になるのに…。

謝ることで、相手が許してくれたら、この見捨てられるのではないかという不安は消える。また見捨てられないと思って人間関係を築くことができる。

私たちは相手が見捨てないと思うからこそ、仲良くしようと思って優しい態度を見せることができる。しかし、それは相手が自分のことを見捨てないと思っている間のことだけ。一度見捨てると思ったならば、もう優しくはなれない。今まで相手のことを傷つけないようにしていた人も、平気で傷つけるようになる。そこに相手が悪いだの色々な理由を付けて、相手を傷つけることを正当化する。何故なら傷つけた方が相手は自分のことを見てくれるからです。見てくれたら自分を感じて安心できる。そうやって見捨ててくると思う相手には、傷つけることを何とも思わずに傷つけてしまう。だから、本当に見捨てられる。

私たちが他人から見捨てられるのは、それは見捨てられる前に見捨てられると思っているから。見捨てられると思うと今だけでも相手の目を自分に向けようとして平気で傷つけてしまうからです。

見捨てられると思った時には謝らなければならない。それは自分が悪いとか、悪くないとかは関係ない。また、私は見捨てられないのだと安心したいから謝るのです。謝って相手が許してくれたら、また見捨てられない関係を築くことができる。

この見捨てられない関係を築くことが存在価値の価値。私は価値のある存在だから、相手は見捨てないと思って、これからも相手は私のことを見てくれると思う心。

人は見捨てられないと思うからこそ、優しくなれる。いつまでも優しい人間でいたいと思ったならば、怒ったり失敗していい顔ができなかった時に、謝って、すぐに許してもらうことが大切。

人の幸せは謝れるかどうかにかかっている。謝れる人は幸せになり、謝れない人は不幸になる。

幸せになる為にも、謝ってゆきたいですね。
思いを通すために頭を下げる
人生はどれだけ思いを通せるか、それで幸福度が決まると言ってもいいです。

しかし、多くの人は思いを通す為に、自分が上に立とうとする。その為に思いを通す相手を見下してしまう。そうすると、相手を見下したことで、それが唯識に跳ね返り、世界から見下されたように感じて、どんなに思いを通しても満足できなくなります。

それは見下されたと感じることで無力な存在だと感じるから。だから、どんなに思いを通しても自分には力があると思えず、力があると感じる為に、もっと思いを通さないといけないと思ってしまうのです。

思いを通すということは、自分が上に立って通すのではありません。思いを通す為に頭を下げて通してゆくのです。頭を下げることは、自分のプライドが傷つきます。しかし、自分のちっぽけなプライドよりも思いを通すことが大事だから、頭を下げてでも思いを通してゆくのです。

頭を下げるのは、始めは苦しい。でも、頭を下げ続けてゆくと、自分が上で、相手は下だという気持ちが弱くなる。それと同時に、見下されているのではないかという不安もなくなり、穏やかな心になります。そして、思いを通すことで幸せも感じることができます。

頭を下げれば思いを通せることは多い。思いを通したかったら、偉くなることよりも、頭を下げた方が断然いい。

人生幸せになる為にはどれだけ思いを通すことができるかで決まる。それはどれだけ思いを通すために頭を下げることができるかで決まるのですね。
価値を求める人生
人生の本質が分かってくると、人生とは虚しいものだと知らされてくる。それは自分が今までやってきたことが意味のないものだと知らされるからです。

多くの人は価値を求めて生きています。お金という価値、財産という価値、地位や名誉という価値をより多く手に入れたものが勝ち組として優越感を味わうことができると思っています。

しかし、どんなに価値を手に入れても、死んで持ってゆける訳ではありません。死んでゆく時には、価値を手に入れ、優越感を味わった人ほど、価値を失い惨めな思いをしなければなりません。

だから、価値を手に入れた人ほど、価値を失う時には苦しむ。しかも、その苦しみは手に入れた価値に執着している限り、苦しみ続けなければならないのです。

人は幸せを求めながら、価値という苦しみを生み出すものを求めて生きている。それが分からないから、価値を求めることに必死になれるのです。

幸せを求めて苦しみを生み出す存在が人間と言えるでしょう。


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