FC2ブログ
幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
上の心と下の心
仏教では上の心と下の心が教えられる。

上の心とは、今自分が自分だと思っている心。

頭の中でこれは正しいから、こういう風にしようと思っている心。これが上の心。

でも、人間にはどんなに頭でこの時はこういう風にしなくてはいけないと分かっていても、腹底から感情が吹き上がってきて、できない心がある。

それが下の心。
下の心とは自分の理性ではどうにもならない心。

どんなに頭ではこうしなくてはいけないと分かっていても、一度感情が吹き上がると理性は吹っ飛び、あたりを滅茶苦茶にしてしまう。

仏教では人間は死ぬと上の心が無くなり下の心が残ると教えられる。

今自分だと思っているものが自分ではない。

本当の自分を知らなければ、臨終になって今自分だと思っているものを失い心が真っ暗闇に包まれてしまうのである。

心を浄らかにするとは
心を浄らかにするとは何か。

浄らかとは、物事を煩悩によって歪ませることなく、ありのままに見えている状態。

ありのままに見るとは、自分にとって都合の悪い現実を煩悩によって見えなくさせて、都合の良いように見るのではなく、ありのままに見ること。

だから、ありのままに見るとは、自分にとって都合の悪い現実を見なければならないから、苦しい。
つまり、心が浄らかになると自分の見たくない現実まで見なければならないから、心が穢れていた時よりも苦しくなる。

でも、正しく見えなければ正しく判断することはできない。

私たちは、苦しみたくはないから、煩悩によって世界を歪ませ、見たくない不都合な現実を隠している。
その為、正しい判断をすることができず、苦しみの流転を繰り返さなければならない。

中でも正しく見れないもの。

それは時間。

私たちは、いつまでも生きられると思って生きている。
だから、自分の時間の使い方に疑問を起こすことはしない。
自分が死んでゆかなければならないということがもし分かっていたら、必ず自分の生き方に疑問が起きてくる。

このままただ流されるまま時間を費やしていていいんだろうか。

このまま一生を終えたくはない。
自分の中で言い知れない気持ちが起きてくるはずです。

これが心が浄らかになるということ。それは自分の死について真剣に考えるようになることでもあるのです。

失っているものに執着すると残っているものも失われてゆく
私たちが我をつけて執着しているものは、自覚はないが、これが自分だと思っているもの。

執着するとは、使わないのに捨てられず、まだ使うからと言って、取ってあるもの。

現実には変わってしまったのに、変わってしまった現実が認められず、いつか失われてしまった現実がやってくるのではないかと思って、その時に必要なものを取ってある。

物を整理するのは、どんなに失われた現実に執着したとしても、その現実はやって来ないことを認めるため。

なぜ現実を認めなければならないのか。

それは変わってしまった現実を受け入れなければ、前に進むことができないから。
物を整理できない人というのは、現実が変わってしまったということを受け入れようとはしない人。その人はいつまでももう戻らない過去に執着する。
前に進むとは、失われた現実にいつまでもしがみついても意味がないと明らかに見て、今、自分に残っているものを大切にしてゆくこと。現実を受け入れなければ、今、自分に残っているものさえも失われてゆく。そして、最後には孤独しか残らない。孤独にならない為にも、整理して現実を受け入れてゆかなければならないのですね。


布施とは
布施とは何か。

布施とはあまねく施す。あまねくとは相手を選ぶことなく、誰でもいい。つまり、布施とは相手を差別することなく施してゆくこと。

そこで相手を差別することなく施しをする上で大事なことは何か。

それは我を取って施しをすること。
我がついているとどうしても思い通りにしたいという心が働く。

こんなに施しをしたのだから認めて欲しいとか。今度は自分の思いも通して欲しいとかという心が動く。施しをしたときに、この心が起きないようにすること。
それが布施。

じゃあ、どうしたらこの心を起こさないで済むかと言えば、それはこの心が起きないぐらい、施しが少なければ、この心を起こさないで済む。 

だから、布施とは何人の人に施しをしても懐が痛まない程度の施しをする。これが布施。

でも、どんなにわずかなものを施しをしても、我の強い人は、そこに我がついて、相手が思い通りにならないと腹を立てて、もう二度と施しなんかするもんかと思う。

この最たるものが挨拶。挨拶は布施の最たるもの。
挨拶は布施なのだから、どんな相手も気持ち良くしたらいいし、たとえ挨拶がなかったとしても、挨拶は布施なのだから、そこで腹を立てて、なぜ自分に挨拶がないのかと思う必要はない。

でも、世の中にはこの挨拶が布施になっていない人が一杯いる。
挨拶をしたのだから、挨拶を返すのは当然だと思って、挨拶を返してくれない人に対して、心の中で怒りの刃を向ける。それは挨拶に我がついているから。
挨拶なんて自分のお金を出す訳でもなければ、何か大変な労力を払う訳でもない。それなのにせっかく挨拶したのにどうして返してくれないのかと思うのは、こんなわずかな挨拶というものにも我がついているから。

だから、布施が分かったならば、挨拶をしたのにどうして返してくれないのかと相手を恨むのではなく、どうしてこんなわずかな施しでさえも我がついてしまうのかと何でも我がついてしまう自分を反省してゆくことができるのです。

執着から離れるために布施がある
執着が強くなればなるほど、自分のことしか考えなくなり、まわりが見えなくなる。

じゃあ、どうしたら執着を減らすことができるのか?

仏教では、その為に布施が勧められる。

布施とは、あまねく施すこと。

施しとは、これは自分のものという執着を捨てて、相手に与えること。
だから、施しをしたら、自然と執着は減ってゆく。
でも、現実には施しをしても、その施しをしたものに私たちは、執着して、こんなにしてやったんだという気持ちから離れられない。
だから、布施とはあまねく施すことが大切になる。
あまねくとは、相手を差別することがないこと。差別しないとは、自分の我のついている人も我のついてない人も差別しないということ。

そうやって、やってみると、どうしても我のついている人には気持ち良く施しができても、我のついていない人には気持ち良く施しができない。そんな私たちの布施の実態が見えてくる。

この人によって差別する心こそ執着。
布施とはこの執着に気付く為にやってゆくこと。
執着とは見えないから正すことができない。だから、自分の執着に気付く為にも、布施に心がけてゆくことが大切なのです。



プロフィール

上田祥広

Author:上田祥広
管理サイト
浄土真宗講義



最近の記事



ブログランキング

FC2ブログランキング



最近のコメント



カテゴリー



FC2カウンター



ネットサーフィンの鉄人

ネットサーフィンの鉄人



ブログ全記事表示

全ての記事を表示する



RSSリンク



てくてく…



お友達のブログ

このブログをリンクに追加する



グリムス