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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
一人からされたことは、みんなに対して自分がやっていること
人間は誰しも我を持っている。

我とは、他人から見た自分。他人から自分がどのように扱われるかによって、私たちは自分の価値を判断している。

だから、他人から軽く扱われた時、私たちは相手から見たら、自分は軽く扱われる存在なんだということにショックを受ける。

この時、自分が軽く扱われたのは、自分が他人に対して軽く扱っていたからなんだと思う人はいない。

私たちは他人から嫌なことをされた時、嫌なことをした相手を問題にするが、相手からされることは、自分もやっているかも知れないと思って、自分の言動を反省する人はいない。

これが我。我とは自分に価値があれば、まわりの人は無条件で自分のことを大事にしてくれると思う心。

つまり、自分に価値があれば、自分は他人のことを軽く扱っても、他人は自分のことを重く扱ってくれると思っている。

でも、仏教は因果の道理。自分にやってくることは、すべて自分が他人に対してやっていることなんだということ。

だから、他人から冷たくされたならば、なんで私は冷たくされなければならないんだと思うのではなく、冷たくされるということは、気がつかなかったかも知れないが、自分もまわりの人に対して冷たくしていたんじゃないかと思って、まわりの人に対して優しくしてゆく。

私たちはやられたらやり返すと、冷たくされたら、冷たく返すことをしてしまうが、仏教では、やられたら、反対で返す、しかも、一人の人に冷たくされたら、まわりの人に温かいものを返してゆく。

因果の道理とは不思議なもので、自分がみんなに対して温かいものを返したら、必ずまわりから温かいものが返ってくるようになる。

そういう意味で、すべて自分の種まきなんだと思わずにはおれません。一人からされたことは、自分がまわりの人たちにやっている姿なんだと思って反省してゆきたいですね。
自分のものにする心から苦しみが生まれる
仏教では、苦しみとは、物や人に我をつけて自分のものにする所から起きると教えられる。

なぜ自分のものにしたら苦しみが起きるのか?

それは自分のものにしたものは、自由にできると思っているから。

自由にできるとはどういうことか?

自由にできるとは、価値のあるものでも、価値のないものとして見て軽く扱うことができる。

思い通りにならないものは責めて思い通りにすることができる。

自分が楽になるために、相手を動かすことができる。

これが自由にするということ。

でも、私たちは相手に対して思ったことは自分に跳ね返る。

馬鹿にしたら、馬鹿にされているように感じるし、責めたら責められているように感じる。そして、自分が楽をした分だけ、自分が動かないといけなくなった時に苦しくなって、不満しか起きて来なくなる。

私たちがこれは自分のものになったと思って、自由にできると、これらのことを思っただけで、私たちは軽く扱われているように感じて、何とか自分の価値をまわりに認めさせようと頑張るようになるし、責められないように生きるようになる。また、他人の為に動くと不満が起きるので、自分が認められるか、楽をする為にしか動けなくなる。

そして、このようになると、人生は思い通りにならないことがいっぱいで苦しむ。

あれもこれも障りになる。障りになったことがいつまでも忘れられず苦しみ続ける。

すべて自分のものにしたいという心から起きる。苦しみとは、自分のものにして安心する所から生まれるのですね。
お金があるからと言って幸せになれる訳ではない
私たちは一度自分のものにしたものは思い通りにできると思っている。

だから、お金があると、あれも欲しい、これも欲しいと夢は広がるし、ネットを見ては、欲しいものがあったら、手当たり次第に買おうとする。

でも、そうやって、欲しいから買ったものは多くの場合、使わない。だから、家の中には使わないものが溜まってゆく。

人間って不思議なもので、欲しいものがあると欲を出して買うのに、買ったものが使わないからと言って捨てることはしない。

だから、いつの間にか、家の中には使わないものが溜まってゆく。

そうやって、買ったものでも、使わないで放置しておくと、物を粗末にしているように、自分が粗末に扱われているように感じるようになる。

それは我のついたものは、自分の分身だから、我のついたものを粗末にすると、自分が粗末に扱われているような感じがして不縁になる。

だから、粗末に扱われたくないという思いが強くなって、まわりの人が自分のことを大事にしているかどうかが問題になる。

そして、まわりの人が自分がここにいるのに、キヲツカウことなく、好き勝手なことをしていると、自分の心が傷つき、腹が立って、相手の自由を力ずくで奪いたくなる。

例えば、仕事中に楽しく会話をしている人が許せなくなって、今は仕事中だから、真面目に仕事をしなさいと正義を振りかざして、相手を責める。

だから、何となくまわりの人から避けられて一人になる。一人になると、誰も自分のことを愛してくれる人はいないと思って寂しくなる。

その為、自分のことを愛してくれる人に出会うと、寂しさから、その人といつも一緒にいようとする。

でも、使わないものをたくさん持っている人ほど、寂しさが強くなり、相手に執着して、相手の行動を縛りなから、いつまでも安心することはできない。

自分は相手の行動を縛り、思い通りに振る舞いながら、相手が思い通りにならないと、怒りを起こし、相手を責める。

やがて、相手はこんな人とはつき合いきれないと思って離れてゆく。

そして、私は人から見捨てられる存在だと思いながら、寂しさを埋めるために物を増やし続ける。

お金は自分を幸せにしてくれると思っている人は多いが、お金があれば、欲しいだけで物を買うようになり、それは自分を不幸にするだけでなく、自分のまわりの人も不幸にしてゆく。

お金があるからといって、幸せになれる訳ではないのである。
目の前のこの人のことしか見えてない
この人と一緒に過ごせる時間は限られていると思うと、その人に執着して、少しでも一緒にいたいと思う。

でも、この人と一緒にいたいと執着している間、実は他の人との時間も限られていることに気づいていない。

人間とは執着している相手しか見えていない。

でも、実際は、自分と接する人すべて今しか会えない大事な時間であり、大切にしなければならないと思うのです。

でも、私は目の前のこの人しか見えてない。

この人に対する思いの幾分の一でも、他の相手の方に向いて、その人との時間を大切にしたら、もっと人生は変わってくると思うのに。

なかなか他の人を見ることは難しいことですね。

まずは、他の人との時間を大事にしてゆきたいものです。

穢れが溜まると
穢れが溜まると、愛欲が強くなる。
いつもまわりの人から自分のことが大事にされているかどうかが問題になって、自分がここに存在していながら、無視されると心が傷つく。
そして、いつまでも相手のやったことが忘れられなくなる。

だから、穢れが溜まると、まわりの人から自分がどう見られているかばかりが問題になって、他人から認められる為に動くようになる。

そして、このように動くと、他人に振り回されるようになるので、自分が無くなる。自分が無くなるとますます他人からどう見られるかばかりが気になって、他人から認められるように、認められるように動くようになる。

でも、たとえ他人から認められたとしても、心が穢れている人は、安心することはしない。もっともっと認めてもらおうと動き続け、心に不安をいだきながら、他人の顔色ばかり気にして生きてゆかなければならないのである。


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