幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
悪を責める人ほど、自分の悪は認められない

私たちは、相手が一旦、悪いと認めたならば、その相手に対して容赦なく責める。責めるというのは、溜まった負の感情を吐き出すという行為だから、悪いと認めた相手は、一方的に負の感情をぶつけられ、苦しまなければならない。そして、この苦しみは相手が怒りの感情をぶつけた後も続く。それは相手からぶつけられた負の感情を受け取るから。負の感情は溜まると誰かが悪いということで責めることで吐き出したくなる。ところが、自分が悪いということで相手の負の感情をもらった人は、自分が悪いから、誰かを責めることができない。

責めることができないから、自分を責める。その為に苦しむ。しかも、私たちは、悪いと認めたのだから、直す筈だと思って見ている。その為、悪いと認めた所が直ってないと、また、その相手に対してここが出来ていないと責めるし、その時、負の感情が溜まっていたならば、容赦なく相手に感情をぶつけ、負の感情を吐き出す。

だから、悪いと認めると、そのことによって、何度も何度も責められて苦しまなければならない。

その為、悪いと認めて責められた人ほど、責められたくないから、自分だけが悪い訳ではない、相手の方が悪いと責めるようになる。そして、自分は悪くないという所に立つようになる。それでいて、悪い相手は、容赦なく責めるし、相手が謝っても、相手を許すことができずに、自分の気が済むまで、一方的に責めてしまう。

悪を責める人ほど、自分の悪は認められないものなのですね。


悪は責めればいいという人

自分の心をよく見ると、責めることは良くないと思いながら、悪い奴には責めてもいいという心がある。ここで悪いとは、どういうことか?

私たちは悪いという言葉を否定されて当然の人という意味で使っている。

この世は火宅。みんな自分の中に溜まった穢れを吐き出して楽になりたいと思っている。

だけど、みんな穢れが溜まっているから、誰も気持ち良く、自分の穢れを受け取ってくれる人はいない。

だけど、自分の中に溜まった穢れは吐き出したい。だから、自然と穢れを吐き出す為に、穢れを吐き出していい相手を作り出した。これが悪い人。

みんな自分に良いように嘘をつく。悪い奴には罰を与えないと反省しないから、悪を正す為には、悪を責めることは良いことであり、必要なことなんだと言う。

実際は、自分の心の中に溜まった負の感情(穢れ)を吐き出して楽になりたいだけなのだが、そうやって、穢れが溜まってくるとまわりを見て、悪い奴を探しては責めるようになる。

だから、私たちは悪い人間になりたくない。それは、悪い人間になったら、まわり中から責められるから。

そして、正しい人間でいたい。それはいつでも他人を責めることができるから。

私たちはどうしたら、自分の心の中に負の感情が溜まらないかということは考えず、溜まったら、悪い奴にぶつければいいと思っている。だから、この世は苦しみが絶えないのだと思いました。


心を大事にすると言って罪悪を造る

よく自分の心を大事にしなければ、と言って、自分の心に無理をかけることは良くないと思いを通す人がいるが、仏教では、そういう人は、たいてい邪欲という罪悪を犯してゆく。

邪欲とは、他人に振り回されたくないと思って、楽になりたい、自由に振る舞いたいという感情から起きてくる罪悪で、そんな心で、まわりの人の存在を軽く見たり、無視することで、生み出す罪悪。

これは他人がいると、その人から悪く思われているのではないかと気にして、相手の顔色を窺っている人が、こんなに気を遣うのは苦しいから、もう気を遣いたくない、自由に振る舞いたいという心から、相手の存在を考えずに自分のやりたいことをしたいと思ってすると、それが邪欲という罪悪になる。

では、邪欲とは、どんな罪か?

それはどんなに自由に振る舞いたいと思ったとしても、その為に相手の心を軽く見たり、無視して、自分の思いを通すと、その報いで、まわりの人から自分の存在を軽く見られているのではないかという不安が起こり、自分の存在を軽く見られたくない、馬鹿にされたくないという感情が起きてくる。

だから、自分のことを馬鹿にされない為に、必要以上に自分の存在を大きく見せたり、自分が如何に価値のある人間かということを誇示したり、まわりの人と比べて自分が上か下かということが気になるようになる。

でも、どんなに頑張って、自分が価値のある人間だということを示したとしても、それによって、まわりの人を見下したならば、その起こした感情によって、今度は自分が見下されているように感じて苦しむ。

だから、どれだけ自分が価値のある人間だと示したとしても、ちょっとでも、自分の思い通りにならなかったとしたら、自分は糞のような価値のない、みんなから嫌がられる存在のように感じて苦しむし、そんな時は怒りを起こして、自分のことを馬鹿にするなんて許せないと相手を責める。

そして、今度は力で相手をねじ伏せた分だけ、常に自分が価値のある人間だということを認めさせられなかったならば、自分の心が潰されて、血塗れになるように感じて、必死になって自分の価値を認めさせようとする。まさに自分の心が生み出した落とし穴に自分がはまって苦しむのが罪悪。

そして、この苦しみを生み出すのが、邪欲であり、その心が起きるきっかけは、他人に縛られたくないという思い。本当に心に任せていたら、苦しみはどんどん深くなるだけですね。


否定したら否定される世界

責めると責められると分かっているのに、心の中で責める心がふつふつと吹き上がる。

それはどんなに責めることは良くないと分かっていても、こんな悪い奴は責めてもいいんだと思っているから。

さらに自分の心を見つめたならば、そうやって責める心が吹き上がる相手というのは、相手が自分の存在を否定してくるのではないかと思っている相手。

なぜ別に否定されている訳でもないのに、相手が自分のことを否定してくるのではないかと思ってしまうのかと言えば、自分が日頃から自分の存在を否定してきた相手に対して、否定しているから。

私たちの心には、目には目を、歯には歯をという心がある。やられたら、口や態度には表さなくても、心で相手の存在を否定し、亡き者にする心。そんな心がある。

だから、一度否定されると、その相手を否定してしまうし、否定するから、否定されるのではないかと思って、今度は否定される前に、相手の存在を否定してしまう。

結局、自分の心の中で否定し、否定されるという等活地獄を生み出している。

どんなに相手から否定されたとしても、その相手を否定することは自分を否定するのと同じだと思って、相手を許してゆくことが、自分を苦しませない為に大切なことなのですね。


親になって初めて知る親心

親になって初めて知る親心ということわざがあるが、何かを大事にしたことがないものは、他人から、「こんなにもあなたのことを大事にしてきたんですよ。」と言われても、その相手の気持ちを分かってあげるどころか、責められたようにしか感じない。

大事にするとは、相手の気持ちを重く扱うこと。私たちは自分の思いを優先したい気持ちはあるが、その気持ちよりも、相手の思いを重く扱って、決して相手のことを軽く扱わないこと。

例えば、子供が遊園地に行きたいと言ったならば、その時は忙しくて行けなかったにしても、心の中でいつもその子供の言葉が引っかかって忘れることができない。

これが大事にするということ。

なぜ相手の思いを大事にするのかと言えば、自分にとって相手は大事な存在だから。

だから、自分の思いよりも、相手の思いを優先する。そして、相手の思いの為に自分の思いをどれだけ曲げてきたか。

それが相手を大事にするということ。自分では納得できないことでも、相手がそうしたいならば、と思って、相手の思いを大事にする。それが如何に大変なことか。やってみた人しか分からない。

親になるとは、独身の時は自分のわがままを通してきた人も、子供ができると、その子供の為に自分の思いを曲げて、子供の思いを通してゆく。

それは子供ができても、子育てを誰かに押し付けて、自分の思いを優先してきた人には分からない。

子育てとは、自分の思いは通らないもの。子供の気持ちを大事にして、子供の心が潰れないようにしてゆく。

それを実践していない人に、人の気持ちは分からない。どんなに心を訴えても!分かってはもらえないのである。




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