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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
光明照らしたえざれば
光明照らしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆへなれば 心不断にて往生す


阿弥陀仏の光明は私たちを照らし途切れることがないから、阿弥陀仏のことを不断光仏と言うのです。


往生する為には、阿弥陀仏に対しての思いが絶えることなく、常に思い続けていることが必要です。そして、阿弥陀仏なことを念ずる為に私たちは阿弥陀仏の慈悲を自らも実践し、相手から冷たくされたとしても、温かい思いを与え続けてゆかなければなりません。


ところが、実際に温かい思いでまわりの人に接しようと思うと、始めはできても、だんだん不満が起きてきて、ちょっとのことでイライラして、相手に当たってしまうことも起きてきます。


そんな時、私の心は阿弥陀仏のことを考えているのではなく、自分の欲しか考えていません。このように阿弥陀仏のことを常に念じていなければならないのに、念じる気持ちが続かない私たちだからこそ、聴聞しなければならないのです。


仏法を聞くと自分のことしか考えていなかった自分の心を反省し、また温かい思いを起こしてゆこうと思うようになります。そして、しばらくすると、また、自分のことしか考えなくなるから、また、聴聞して、相手のことを大事に思えるようにする。そうやって、聴聞を続けてゆくからこそ、私たちは自分の心を阿弥陀仏のように変えてゆき、往生することができるのです。


阿弥陀仏の光明は阿弥陀仏のことを念じなければならないと思いながら、それができない私たちだと知らせて、阿弥陀仏のことを常に念ずることができるように絶え間なく聴聞させて下さるのです。


これが不断光なのです。


観音勢至もろともに
観音勢至もろともに 慈光世界を照曜し 有縁を度してしばらくも 休息あることなかりけり


観音と勢至は阿弥陀仏の慈悲と智慧を表す菩薩。これは、阿弥陀仏に救われた人に対して、ある時は智慧の光を照らし、ある時は慈悲の光を照らして、その人が一人前の菩薩になるように照育されているということ。


だから、阿弥陀仏に救われた人は智慧と慈悲が備わってゆき、自分のまわりの人たちに対して教えを説き、心を支え、心を育ててゆく。


子育てでも、思うことだが、子供というものは、勝手に育っていく。でも、それは自分のような子供になるだけで、育てている訳ではない。育てるとは、こういう大人になって欲しいという願いをもって、子供に接し、必要なことを教え、いつも暖かく接してゆくこと。これが慈光世界。


阿弥陀仏は観音勢至になって慈光世界を照らし、人を育てるとは、どういうことかを教えてくれる。ただ構ってあげたらいいんじゃないんだ。暖かい気持ちをもって、その人の人生にとって大切な智慧を教えてあげることなんだ。


だから、観音勢至の光によって、慈光世界が照らされ、知らされた人は、世界中のすべての人というような大きなものではなく、自分のみまわりで接している人に対して、その人の苦しみを取り除き、幸せになる所まで、いつもその人の幸せを念じて、タネを蒔き続けてゆくのだということです。




十方衆生のためにとて
十方衆生のためにとて 如来の法蔵あつめてぞ 本願弘誓に帰せしむる 大心海を帰命せよ


十方衆生とは、大宇宙のすべての人。その中には善人もいれば、悪人もいる。阿弥陀仏はそのすべての人を相手にして必ず救うと誓われた。ということは、すべての人を救うということは、どんな極悪人も救うという誓いのこと。極悪人ほど、教えを正しく聞かない、ちょっとこうしなさいと言われただけで、自分を否定されているように言われているように感じて、反発してしまう。そんなものを救おうとしたら、本当に少しずつその人に合った教えを説かなければならない。


人の心は十人十色。一人一人の心にあった教えを説かなければ、私たちは教えを理解し進んでいくことはできない。だから、阿弥陀仏は如来の法蔵の中にあらゆる人を導く為の法を集めて、阿弥陀仏に救われた人をどんな人でも導くことができる説法ができるようにして下された。


だから、阿弥陀仏に救われた人はどんな人に対しても、その人に合った教えを説き、どんな人も見捨てないという阿弥陀仏の御心が知らされ、私はこんな悪人だけど、こんな私でも見捨てられないのだと阿弥陀仏の本願に帰するのである。


そんなすべての人の心を知られた大きな心の海のような阿弥陀仏に心から頭を下げずにはおれません。


安楽無量の大菩薩
安楽無量の大菩薩 一生補処にいたるなり 普賢の徳に帰してこそ 穢国にかならず化するなれ


浄土に往生した無量の大菩薩方は、仏になって、仏の世界に留まることなく、菩薩のままで、この世界に留まり、すべての人が救われるまで、人々に教えを説き続けておられる。


それは阿弥陀仏に救われると、阿弥陀仏から大慈悲の心を頂くので、まわりの人を幸せにしたいという心が起きるから。これを普賢の徳と言い、この普賢の徳である阿弥陀仏の大慈悲の働きによって、この世界である穢国の中に留まり、相手の心の不安や苦しみを取り除き、心安らかにする為にどこどこまでもタネを蒔き続けてゆくのだ。


寛大になって欲しい
我が儘な人ほど、他人の我が儘が許せない。自分の都合で他人を振り回している人に対して、あんなことをしたら、ちゃんと謝らなければならないと批判する。

でも、そう言いながら、自分も都合が悪いと簡単に決めていたことも崩し、他人を振り回している。

私は他人に迷惑をかけたり、時間を取らせることはそれほど悪いとは思わない。だけど、そんな一握り対して、自分だって迷惑をかけているのだから、迷惑をかけている人に対して、あんなことは良くないと否定せず、相手に構ってもらいたいのだなと思って、寛大に思ってくれたらいいなと思ってしまう。

結局、迷惑をかけることがどんなに悪だと否定しても、自分だって迷惑をかけているのたから、相手に向けた刃は自分へと戻ってくる。否定したら否定される。

その相手がどんなに悪い人であったとしても、相手を否定することは自分を否定することと同じ。自分がやがて苦しむことになる。

私たちには感情がある。どんなに正しいことだからと正義を振りかざしても、感情がついて来ないことがある。

そんな時は感情を否定して、無理やり正義に従わせるのてはなく、思い通りにならない感情があるんだなと思って、許してあげる。

正しいことに従うことは大切だが、従えなかったとしても、否定されるような悪ではない。

他人の悪も、自分にも同じ悪があるのだと思って許してあげれたら、どれだけ心も楽になるのかと思わずにおれません。

だからと言って、正義に従わなくていいということではないが、今は


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