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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
寂しいのは、何気ない人との時間を大切にしてないから
人がまわりにいるのに、自分の求めている人から見てもらえないと寂しいという気持ちがある。この気持ちが執着を生み出すのだと思うが、こっちを見てくれない人のことを考え、寂しいと思うよりも、自分のことを見てくれる人の為に時間を取った方がいいと思うのだが、どうしてもお目当ての相手から見てもらえないと寂しくなる自分がいる。

きっとこの人のことばかり考えて、他の人のことを考えていないことが問題なのだと思う。この寂しい気持ちはどこから来るのか?相手はきっと寂しいと感じないのだと思う。でも、自分は寂しい。これはもっと他の人との時間を大事にしてゆかなければならないのだと感じます。人は離れてゆく人を見ると執着して、自分の元に戻そうとするが、自分のそばにいる人のことは見ていない。でも、今自分のそばにいる人のことが今の自分にとって大事なんだと思います。

不思議なもので、今の自分は孤独ではない。人に囲まれているのに、求めている人から見てもらえないと寂しくなる。でも、きっと寂しいのは、求めている人から見てもらえないことではなくて、一人一人の人と付き合う時間を大事にしない自分にあると思います。人は出会いがあれが別れがある。せっかく一緒にいても、その時間を大事にしなければ、別れが来て、この人との時間は何だったのだろうと思ってしまう。私が寂しさから離れる為には、どれだけ求めている人と一緒にいるかではない。自分と一緒に過ごす人との時間を大切にして、如何に今しかないと思うか。例えば、目の前に子供がいたら!その子供と一緒に過ごす時間は今しかない。この時間を今しかないと思ってわ私は大切にしているか。

反省してみるに、今まで何となく過ごしてしまったように感じます。いろんな人と私は一緒に過ごすことが多いが、この時間は今しかないと思って、心を込めて今という時間を過ごしていなかったように感じます。だから、基本的に寂しい気持ちがあり、それが求めている人から見てもらえないと寂しく感じたのだと思います。寂しさはどんな相手と過ごしても解消することができる。自分が求めるのではなく、自分のことを必要としてくれる人との時間を大切にして、そこで寂しさを解消して、いつも穏やかに過ごすことができたらいいなと思いました。
安楽浄土をねがひつつ
安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地懈慢にとまるなり

阿弥陀仏の極楽浄土に往生したいと願いながら、まだ阿弥陀仏から他力の信心を得ていない人は、浄土とは、阿弥陀仏の作られた浄土に自分が死んで往生することであると思っている。つまり、往生とは、幸せな世界に自分がゆくことだと思っている。そこに往ったならば、自分はいくらでも欲に流れることができるし、みんなから大事にされる。そんな世界が極楽だと思っている。だから、本当の浄土とは、自分のまわりの人たちに幸せを与えてゆき、自分のいる環境を極楽のような世界にすることだということが分からない。幸せとは、誰か尊い人が作ってくれる世界てあり、自分はそんな世界に行きたいと思っている。考えてみれば、私たちは自分のいる世界に不満しか起きない。みんな自分のことしか考えないと言ったり、自分が努力して気を遣っているのに、優しい言葉一つかけてくれないと文句を言ったり、いつもまわりを見たら、思い通りにならないことばかりで、こんな世界嫌だと思ってしまう。だから、阿弥陀仏の極楽浄土の話を聞くと、こんな素晴らしい世界があるなら、往生したいと思う。その目的は、自分が楽ができるからてあり、そんな自分をまわりから大事にされると思っているからである。

でも、本当の浄土とは違う。自分が楽ができる世界ではなく、自分だけが動き、まわりの人を楽にしてあげる世界が浄土。また、自分が大事にしてもらうのではなく、自分の方から相手を大事にしてあげるのが浄土。こんな話を聞くと、そんな世界のどこが素晴らしいのかと思ってしまう。だから、自分が幸せな世界を作ってゆくことがどれだけ幸せなのかが分からないから、みんな仏智不思議を疑っているのです。

私たちにとって幸せは自分が楽ができることではなく、幸せな世界を作ってゆく為に自ら動いてゆくこと。自分の努力によって、幸せな世界ができることは何よりも幸せなことであり、それはどんな幸せな世界があって、そこにいったとしても、味わうことができない幸せ。阿弥陀仏の極楽に往生するとは、そんな幸せな世界を自ら生み出してゆこうと、どこどこまでも努力してゆく身になること。それはとても幸せなことであり、この世のどんな幸せも、幸せを生み出す幸せに比べたら色あせるほど、幸せなのです。

幸せは誰かが作ってくれるものではなく、自分が生み出してゆくものだと心が大変わりするのが他力の信を得ることであり、そこから無限の努力を続けて、自分のいる環境を阿弥陀仏の極楽浄土のような幸せな世界へと変えてゆく身になるのです。
定散自力の称名は
定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する

自分は善ができると自惚れている間は、口で南無阿弥陀仏と唱えても、心ではまわりの人と比べる心でやっているので、それは念仏ではなく、念人。しかも、できない人を念じているから、どんなに善に励んでも、徳は身につくことはない。そんなものも、善に励んで己の醜さに気がつくと、念人から念仏へと変わってゆく。これが果遂の誓いに帰すること。そうなったならば、誰からも教えられることはなくても、自然に仏になる道が開けるので真如の門に入るのです。
仏教は施しの教え
改めて知らされたことだが、仏教とは施しの教えなんだと分かりました。いつもまわりの人に対して、自分ができることはないかと考え、人が幸せになるように、自ら動いてゆく。なぜ動くのかと言えば、一番は人間というのは、時間ができると欲に流れることしかしないから、大切な時間を欲という無駄なことにしか使わない。だから、時間ができたら、自分の欲に流れる前に、まわりの人の為に自分ができることはないかを考えてゆく。そうやって、他人の幸せの為に動いてゆくと、一番は自分の心が穢れることなく、清らかな状態を保つことができる。

とかく欲に流れると、いつの間にか心が穢れてゆき、まわりの人の言動が気になるようになる。そして、自分だけ動いて、まわりの人が怠けていると、それを責める心まで起きてくる。私たちは他人に動いてもらいたいと思うと、苦しくなる。他人に期待するのではなく、自分が動く。もっといいのが自分から他人の幸せの為に動くこと。

いつも他人が幸せになる為に動いている人は心が明るい。毎日を楽しそうに生きている。それはこの世界を自分の望めように変えてゆこうと思っているから。苦しんでいる人ほど、世界はどうにもならないと諦めている。自分も変わらないし、世界も変わらないと思っている。そして、いつもまわりで思い通りにならないことが起きる度毎に腹を立て、他人を責めることしかしない。

仏教は世界を自分の手によってメイキングしてゆく。自分の身の回りで何か問題が起きた時は、他人が動いてくれないかと期待するのではなく、自分から動いてゆく。自分が動けば、動いた分だけ、世界が変わる。みんなが幸せに暮らせる世界にする為に、自分ができることは進んでやってゆく。動けば、世界は自分の手によって時間はかかるけど変えてゆくことができると分かる。幸せな人は世界を自分の手によって変えてゆけると信じている人でもある。その為にすること、自分の望む世界へと変えてゆく為に自分ができること。それが施し。

幸せな人の心にはいつもこうなったらいいなという思いがある。そして、その為に動いてゆく。だから、心が明るい。この明るさは自分の望む世界へと少しずつだが、近づいていくから。心が暗い人は、自分ではこの世界をどうすることもできないと諦めている。世界は自分の望む世界へと変えてゆける。

それは毎日のちょっとした努力によって成し遂げることができる。それはこうなったらいいなと思って、自分から動いてゆくこと。それが仏教の施し。幸せは、この施しによって生み出される。それは今どんなに現実が悲惨でも、ここから始めて、素晴らしい世界にしてゆくんだという願いがある。この願いを持つ人がどんな環境でも幸せな人であり、幸せな環境に変えてゆくことができる人でもある。
寛大になって欲しい
我が儘な人ほど、他人の我が儘が許せない。自分の都合で他人を振り回している人に対して、あんなことをしたら、ちゃんと謝らなければならないと批判する。

でも、そう言いながら、自分も都合が悪いと決めていたことも簡単に崩し、他人を振り回している。

私は他人に迷惑をかけたり、時間を取らせることはそれほど悪いとは思わない。だけど、そんな我が儘な人に対して、自分だって迷惑をかけているのだから、迷惑をかけている人に対して、あんなことは良くないと否定せず、寛大に思ってくれたらいいなと思ってしまう。

結局、迷惑をかけることがどんなに悪だと否定しても、自分だって迷惑をかけているのたから、相手に向けた刃は自分へと戻ってくる。否定したら、その刃は自分にも向けられる。

その相手がどんなに悪い人であったとしても、相手を否定することは自分を否定することと同じ。自分がやがて苦しむことになる。

私たちはどんなに頭では、正しく生きなければならないと思っても、理性ではどうにもならない感情がある。でも、私たちは自分にも他人にも感情があることが分からず、何が正しいかという正義だけで、他人を判断し、悪をしているものを否定する。この否定の刃は他人にも向くだけでなく、自分にも向いている。だから、我が儘な人は我が儘な人が嫌いで否定しているのと同時に、我が儘な自分のことも嫌い。そして、いつも自分を否定して、頭だけは正しくしなければならないと思いながら、感情が思い通りにならず、思い通りにならない感情をいつも否定して苦しみ続ける。

確かに正しいことに従うことは大切なことだが、人間には感情がある。この感情こそ、私たちの本体なのだから、感情を否定して、無理やり正義に従わせるのではなく、思い通りにならない感情があるんだなと思って、許してあげる。

正しいことに従うことは大切だが、従えなかったとしても、否定されるような悪ではない。

他人の悪も、自分にも同じ悪があるのだと思って許してあげれたら、どれだけ心も楽になるのか。

もう少し自分が苦しまない為に他人の悪に寛大になれたらいいですね。


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上田祥広

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