船のヘリに印をつける人 |
人間は簡単には変わらない。注意をされて、その時は改めたように思っても、しばらくすると戻っている。いつの間にか、やっていたこともやらなくなってきます。
それは注意されて、これがあるべき姿だと教えられても、それが都合の悪いことだと、楽な方へ楽な方へと流れてゆくからです。
始めはやらないことに対して罪悪感があったことでも、自分はこうだから、ああだからと言い訳をして、やらないことを正当化してゆく。そして、やらなくなってゆくのです。
ちょうど川に流されている船の上で剣を落とした人が、船のへりに印をつけて、ここから剣は落ちたから、この下を探せば、剣は見つかる筈だと思うように、自分が正しいと思うことは、自分の都合によってコロコロ変わる。
だから、船が川に流されるように、私たちの正義は都合の良い方向でどんどんと流されてゆくのです。
何が正しいか、何が間違っているかという基準が都合によって変わるから、私たちは幸せになりたいと思って頑張っているのに幸せになれず、苦しみ続けることになってしまう。
幸せになるには、どんなに都合が悪くても、変わらない正しい価値基準を持って、善に励んでゆかなければなりません。
変わらない価値基準を持つこと。それが幸せになる為に大切なことなんですね。
|

苦しみは話した方が楽になる |
大概の苦しみは、自分の気持ちを心の中に閉じ込めて誰にも話すことができないことから起きます。
なぜ話せないのかと言えば、こんな悪いことを思っている自分だということを相手が分かったら、相手は嫌な顔をして離れてゆくと思うからです。
でも、勇気を出して話してみると、相手は大抵否定することなく、そんなことで苦しんでいたんだと分かってくれるものです。
考えてみたら、私たちはそんなことでと思うようなことで苦しんでいます。
そして、苦しみながら、この苦しみを話すことはできないと押し込めています。
でも、苦しい時ほど、相手を信じて話してみる。
そうしたら、大概の苦しみはどうでも良くなります。
話すことは不思議なこと。ただ話しただけなのに、現実は何も変わってないのに、苦しみが嘘のように抜け楽になるからです。
苦しみは自分の中に押し込めるのではなく、分かってくれる人に話す。
それが勇気が必要なことでも、勇気を出した分だけの価値があることなんだなと思いました。
|

都合の悪い現実を受け止めて |
仏教とは、自分にとって都合の悪いことを教えられる。でも、それが真実だから、従わなければ苦しみが待っているだけ。だから、嫌だけど渋々従ってゆく。
でも、私たちには煩悩があって、これをやらなければならないと分かっていても、都合が悪いから先送りちしようとする。
そして、先送りにしてゆくうちに、自分にとって都合の良いように現実をねじ曲げて、やらなくてもいい所に立ってしまう。
これが無明の闇。
私たちは無明の闇に覆われているから、自分には智慧がないのに、自分の考えは正しいと思い込んで、自分の思い通りに進んでしまう。
それで思い通りにならず、苦しむと、やっぱり自分が悪いと思えず、他人のせいにして、他人を責めて、思い通りにしようとする。
そうやって、自分のまわりから人がいなくなり、ますます苦しくなる。
都合の悪いことから、逃げてしまうと、人間は現実には合わないことを思うようになる。
そして、ありもしない未来を夢見て、思い通りにならないのではないかという不安を見ないようにしてしまう。
幸せになる為には、都合の悪い現実を受け止めて、現実に合った種まきをしてゆくことが大切です。
都合の良いように思っていても、現実は思うようにはならない。都合の悪い現実に合わせて、種を蒔いてゆくしかないのですね。
|

人はなぜ生きるのか? |
人はなぜ生きるのでしょうか?
それは自分の中に価値のある人間というイメージを無くすことです。
このイメージがあるから、自分はそれよりも上か下かにとらわれて苦しむ。
自分の理想とする生き方ができないと自分はダメな人間ではないかと思ってしまいます。そして、自分を責め続けます。
じゃあ、理想があるなら、頑張って理想を目指せばいいじゃないかと思うのですが、それはしません。
なぜなら頑張ってなれなかったら、やればできたのにと言い訳することができないからです。
でも、そのイメージを持ち続ける限り、人はそれよりも上か下かで苦しみ続けることになる。
そんなものにとらわれない自由に生きていい世界にでることこそ、仏教でいう解脱であり、幸せな心の世界なのです。
|

大事にし続けてこそ |
みんな自分のことを大事にしてもらいたいと思っています。
でも、どんな人と付き合ったとしても、最初は大事にしてくれていても、時が経つにつれて、一緒にいることが当たり前になると、雑に扱ってくるようになります。
だから、こんな筈じゃなかったと次の人に移ったとしても、大事にしてくれるのは始めのうちだけ。やっぱり慣れてくるとわがままになって雑に扱ってきます。
このように、世界中どこを探しても、自分のことを大事にし続けてくれる人はいないのです。
そのことが分からないから、私たちはどこかに大事にしてくれる人がいるのではないかと探し続けてしまうのです。
本当に大事にして欲しいと思ったならば、一度は雑に扱ってくる時を通らなければなりません。たとえ雑に扱ってきても、相手のことを最優先にして大事にし続けることによって、相手は心から安心して大事にしてくれるのです。
相手が始め大事にしてくれるのは、不安だからです。
その不安が一緒にいて安心してくると、今度は雑に扱ってきます。この時、相手のことを心から大事にしてあげることで、相手は段々と心から私のことを大事にしたいなと思って大事にしてくれるようになるのです。
大事なことは相手の態度に関係なく、相手のことを大事にし続けることです。
大事にし続けてこそ、相手も私のことを安心した心で大事にしたいなと思ってくれるようになるのです。
|
|
|
|