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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
みんな人生の目的を知っている
歩くことにも走ることにも目的があるのに、生きることにはなぜ目的を知らずに生きているのかという人がいますが、生きる目的なら、どんな人もみんな持っている。

それは価値のあるものを手に入れて価値のある人間になることです。お金を求めるのも、地位や名誉を求めるのも、それに価値があるからであり、価値のあるものを手に入れたら、自分は価値のある人間になれると思っています。

これは意識しなくても、みんな当たり前のように持っているものであり、だから、自分には価値があるので、自分の人生には意味があると思っています。

しかし、この価値が無常によって崩される。これが真実です。崩されてしまったならば、価値を得る為にかけてきた時間やお金、労力などあらゆるものが無駄になります。

だから、真実から言ったならば、私たちの求めている価値というのは無常のものだから、無常のものを求める為にかけた時間もお金も労力もすべては無駄になってしまうのです。

しかし、私たちは価値が無常のものだとは思っていません。自分の手に入れた価値を持ったまま、死んでゆけると思っています。だから、なぜ生きるを考えなくても何とも思わないのです。

でも、今得ている価値は無常のものであり、失ったら何も残らないと知らされた時、私たちはこの時間やお金や労力をどこにかけたらいいのかを真剣に考えずにはおれなくなります。これがなぜ生きるということなのです。

向くべき方向を間違えている
私たちの思う幸せとは、何か価値のあるものを手に入れて、まわりの人から認められること。でも、どんなに価値のある存在になったとしても、まわりの人が大事にしてくれるのは最初のうちだけで、しばらくすると軽く扱ってきます。

なんでこんなに価値のある人間になったのに、こんな思いをしなければならないのかと悲しくなりますが、よく考えてみたら、どうしてまわりの人から認められたいと思うのか、それが無くなったら、認められることに執着して苦しむことも無くなるのに。

この認められたいと思う心こそ、私たちを苦しめる元。この心から離れることが実は私たちが幸せになる為に大切なことなのです。

私たちはどうしたら価値のある人間に見られるかと価値のあるものを追い求めていますが、実は目を向けなければならないものは、認めてもらいたいと求め続けるこの心にあるのです。

向かう方向を間違えたら、どんなに努力しても幸せにはなれません。苦労が報われる為には、この心に目を向けて、苦しみを生み出す心から離れないといけないのです。
無常だからこそ
この世のどんなものを手に入れたとしても、死んでゆく時には何一つ持ってゆくことはできない。

ゼロから生まれてきた私たちはゼロになって死んでゆく。だから、失うものの為にかけてきた時間は、最後無駄になる。人生とは、すべてのものを置いてゆかなければならないからこそ、最後自分の人生は何だったのかと後悔の涙を流すことになるのです。

この真実が知らされた人は、私の人生何のために生きるのかと考えずにはおれなくなります。

すべてのものは無常の中、無常ではないものを求めなければ幸せはありません。なぜ生きるを考えない人は結局無常のものを求めているので、無意味な人生を生きなければならないのです。
仏教の目的は抜苦与楽
仏教の目的は抜苦与楽。人々の苦しみを抜くことが仏教の目的。

でも、多くの人は苦しみを抜くと言っても、そんな自分は苦しんでいるのかなと思うのが現実ではないでしょうか。

では、この苦しみとは何かと言えば、私たちはこの世のあらゆるものに我をつけて、それによって自分の存在を証明しています。 

例えば、車を買ったら、その車に我をつけて、車を持っているものが自分だと思ってるし、家を建てたら、この家を持っているものが私だと思っています。

この我をつけたものがもし無常によって失われたならば、私たちは自分が何者か分からなくなってしまうので、失ったものに執着し、無くなったという現実を認めようとはしません。

それほど私たちにとって我は大事なものであり、色々なものに我をつけて、それによって自分の存在を証明しているので、この世界を安心して生きていることができるのです。

しかし、仏教では我とは無常なものだと教えられます。どんなに我をつけて、これが自分だと執着していても、手に入れたものを失う時が必ず来ます。

しかも、死んでゆく時には、我をつけたすべてのものを失い、一人で死んでゆかなければならないのです。

この時、自分が何者かが分からなくなり、心は不安に包まれます。そして、同時に我を維持する為に生きてきた人生そのものが何だったのだろうと、今まで人生が無駄になってしまったことに苦しむのです。

どんなに手に入れて喜んでいても、失ってしまえば何も残らない。それに対してかけてきたものが多ければ多いほど、失った時に大きく苦しみます。だから、失うものの為に頑張ること自体苦しみなのです。

でも、私たちは自分の我のつけたものを失うと分かっていないから、我をつけたまま死んでゆけると思っているので、人生が苦しみだと分からずに、我をかき集めて生きています。

そして、死によって初めて自分の人生が無意味だったと突きつけられ、今までの人生が苦しみだったと分かるのです。

これがすべての人が抱えている苦しみであり、この苦しみを抜くことが仏教の目的なのです。
生きる意味を考えるには
多くの人は人生の成功者とは、出世して大金持ちになることだと思っています。そして、お金を求めて、人生のほとんどの時間を費やしています。

しかし、どんなに多くの金を得たとしても、死んでゆく時には何一つ持ってゆくことはできません。そして、失ってしまうと、持っていた時のことなんて夢見たいなもので、手に入れる前と何も変わりません。

人生というのは、最後は失って何もかも無くなるのに、その為に大事な時間やお金や労力をかけて求めているのです。

だから、一生懸命頑張って手に入れた人ほど、失った時に、何のために頑張ってきたのだろうかと思わずにはおれません。

でも、結局、みんな最後は失うものの為に人生の多くを費やしています。

それが分からないから、何のために生きているのだろうと思わないのです。

人生とは無意味なことの為に大事なものを失っていると気づくと、この大事な時間を何のためにかけたらいいのだろうかと考えずにはおれなくなるのです。

なぜ生きるを考えることができる人は、すべてを失う無常な世界であることに気づくかどうかにかかっているのですね。


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