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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
復讐では自分も相手も幸せにはなれない。
私たちは他人から酷い仕打ちを受けた時は、自分がされたことを相手にせずにはおれない。
その時の気持ちは自分はあなたからこんなことをされて苦しかったのだから、あなたも受けてみれば、自分がしたことがどれだけ酷いことか分かるでしょう、と気持ち。
まるで自分が仕返しすることは良いことのように思っている。

でも、仏教から言ったならば、相手からどんなに酷いことをされたとしても、それを相手に返すことは悪。
悪というのは、自分が苦しむ行為。だから、やってはならないと教えられる。

それは自分が相手からされた行為は、この行為によって自分が苦しんできたのだから、それを相手にしたならば、それは相手を苦しませるような悪になる。
この悪を相手にすることは、自分と同じような犠牲者を増やすようなもの。この悪を受けてきたことで自分が苦しんできたことを思えば、たとえその相手が自分を苦しめてきた相手であっても、その相手に自分の味わった苦しみを味あわせることはどんなに酷い行為であるか分かる筈。
だから、他人を傷つけるような行為はたとえ相手がどんな相手であってもやめなければならないと思わなければならない。
それは自分も苦しみを味あわせた相手と同じように他人を傷つけるような悪い人間になってしまうからだけでなく、その報いで自分も苦しむことになるから。

復讐は自分も相手も苦しむ行為。それによって誰も幸せになれないから、やめなければならないのである。
幸せな人は嫌なことがあっても見捨てるという心が起きない
相手から冷たい言動を取られると、心の中では、こんな悲しい思いになるなら、この人を見捨てたいという心が起きる。
もちろん実際に見捨てるという行動に移ることはないのだが、見捨てたいという心が起きるのは、自分の中にそういう心があるからであり、ちょっとのことで、すぐに相手を見捨ててしまう、そんな自分は冷たい人間なんだと思います。
この見捨てるという心は、嫌なことがあった時に、その嫌なことを起こした相手を切ってしまえば、楽になるという考え方。
それは、そのまま独りで生きてゆけると思っている心でもある。
でも、そんな心では幸せにはなれない。それは嫌になったら見捨てればいいと思っている心は、他人は最後は見捨てるものだと思っている心でもあり、孤独な心であるからです。
この孤独な心を持っている人は、いつも心は自分しかなく、どんなに人に囲まれても、いつも心は孤独な人なんだと思います。
幸せとは、分かちあうもの。だから、幸せな人はいつも心の中に人がいる。どんなに苦しくても、辛くても、一人の方が楽だとは思わず、この人たちと一緒に生きてゆこうと思う。
そりゃあ、人と一緒にいたら、苦しいこともありますよ。でも、その中、一緒にやって行こうと最後まで見捨てるという選択肢を選ばないのが、幸せな人だと思います。
そんないつも人と一緒に生きていきたいと思えるような幸せな人になりたいものです。
すべては自分の蒔いた種
自分にやってくるもの。
それは究極的な所、自分が心で思い続けたものが自分に返ってくるのだと感じる。
だから、苦しいと感じることがあったとしても、それは自分と接する人もこんな気持ちになっていたんだということであり、この苦しみは人の痛みを知るご縁だと思って受け止める。
それが大事なことだと思います。

自分と接する人がどんな気持ちになっているか分からないものが私たち。
でも、人の気持ちが分からなくても、自分が今感じていることを見れば、人の気持ちも分かる。
だから、よくなぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのかという人がいるが、それは自分が今まで人に対して、そんな気持ちにさせてきたからであり、その時、相手がどんな気持ちでいたか分からなかったから、今、自分がその人の立場になって結果を受けているのです。

だから、どんなに苦しいことがあったとしても、これも自分の蒔いた種と思えば、心も楽になる。
自分と接してきた人がいつもこんな気持ちになっていたんだと思えば、こんなに苦しい思いにさせてきたのに、気づかなかったと反省できる。
自分が苦しい思いをした分だけ、人にも優しくなれる。

すべては自分の蒔いた種だと思えば、自分にやってくるご縁はすべて自分を成長させてくれるご縁となるのですね。
自分が死ぬとは思っていないから、心でどんな悪を造っても平気でおれる
人間いよいよ死んでゆかなければならないとなると、自分の行く先が問題になる。死んだらどこへ行くのか。できれば、幸せな世界に生まれたい。この行く先は何が決めるのか。その時、私たちは今まで見ることはなかった自分の心に目を向ける。それは心で何を思っているのか。それが自分の心の世界を生み出してゆくから。
だから、死を目の前にすると、自分の心でどんなことを思ってきたか、それが問題になる。

では、死を目の前にして私たちはどんな心が見えるのだろうか。
それはいつも自分の欲を優先して思いを通してきた為にどれだけ他人を傷つけてきたか。また、思い通りにならない時は腹が立て、悪いのはいつも他人のせいだと、どれだけ他人を責めて苦しめてきたか。そして、いい人と思われたくて、他人前ではいい格好をしているが、心の中では他人には言えないような醜いこと、汚いこと、恐ろしいことを思い続けている。そんな心が相手に分かったならば、相手は自分のことをきっと嫌いになって離れてしまうのに、相手は心が見えないことをいいことに、そんなことを思いながら、ニコニコと他人に接してきた。そんな醜い愚痴を抱え続けてきたこと。

自分の心に目を向ければ向けるほど、ろくな種まきをしていないことが知らされ、こんな心では自分の後生はどうなるのだろうかと恐れおののく。
心が世界を生み出し、自分の行く世界を決める。死を目の前にした人は、自分の行く先が不安になり、心を問題にせずにはおれなくなる。

私たちは死ぬまで、自分が死ぬとは思っていない。それはいつか死ななければならないと思ってはいても、それはまだまだ先のことであり、そうやって死を遠くに追いやることで、自分が本当に死ななければならないなんて、考えることなく、毎日過ごしている。
だから、死ぬとは思っていないし、死後が問題にならない。そして、死後が問題にならないから、自分の心に目を向けることもない。
その為、自分の心でどんなに汚い欲、恐ろしい怒り、醜い愚痴を起こしていても、気になることもなく、毎日当たり前のように悪を造り続けている。
まさに後生は一大事なのだが、本当に死ぬまで、心に目を向けることはない。
これが仏教で教えられる後生の一大事なのである。
仏教とは何か
仏教とは何だろう。仏教とは一言で言えば、死の解決が教えられている教えだと思います。

死の解決とは何か。それは人間は生まれた限りには、いつか必ず死んでゆかなければならない。では、死んだらどうなるか。それが分からない。死んだら何も残らないように感じるし、魂が残るようにも感じる。仏教の教えでは、自分の肉体に宿る業が残ると教えられる。
では、その業とは何か。自分の中で実感しない。本当に業が残るのか。その業の存在を自分で感じられるようになること。それが死の解決なのではないかと思います。

誰しも死んでも命がありますように、と願うように、いつまでも続く自分というものがあって欲しいと思うもの。でも、その業の存在が自分で感じることができない。それどころか、自分の存在自体、自分で感じることができないものが私たち。だから、他人から自分の存在を認識してもらわなければ、自分で自分がここに存在しているか感じることができないものが私たちなのです。

では、どうしたら自分の存在を感じることができるのでしょうか。仏教では、それは仏教の教えに従って善を実践してゆくことによって、自分の存在を感じられるようになるのだと教えられます。

ここで善とは何かと言えば、一言で言えば、存在価値を高くしてゆくもの。具体的には、整理をすること。そして、開けたら閉める、出したらしまう、使ったら片付ける、などの反位にあるものを定位に戻すことが善なのです。そうやって、善を実践してゆくと何が見えるのか。それは今使っているものは少なく、ほとんどのものはまた使うからと出してあるもの。そして、いつか使うと思っているから、出したものをその都度片付けることは面倒くさいことであり、なかなかできないものだということが知らされます。

それはすでに悪い習慣が身についてしまっているからであり、どんなに変えたいと思っていても、一度染み付いてしまったものを変えるのはなかなかできないものだと知らされます。
この染み付いてしまった悪い習慣が業であり、仏教の教えに従って変えようとすればするほど、なかなか変わらないものだと知らされる。

このように自分に染み付いた悪い習慣が知らされることが自分の存在を自分で感じることであり、死の解決になるのです。

つまり、死の解決とは自分の業の存在を自分で感じることであり、それはいい自分ではなく、なかなか教えの通りにはならない悪い習慣が染み付いた自分が知らされるのです。


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