FC2ブログ
幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
この世に馬鹿にしてもいい人間なんかいない
私たちは人を馬鹿にする時、無意識のうちにこの人は馬鹿にしてもいい人間だからと決めつけて馬鹿にしている。
そうやって、世界を馬鹿にしていい人間と馬鹿にしてはいけない人間に分けて、自分を馬鹿にしてはいけない人間という所に立って安心して、自分は馬鹿にされない人間だからと思って、人を馬鹿にしている。

でも、どんなに自分を馬鹿にされない所に置いたとしても、他人から馬鹿にされることはある。そんな時、その人は馬鹿にされたことよりも、相手から自分のことを馬鹿にしてもいい人間だと見られたことに腹を立てる。

そして、何で自分を馬鹿にするのだと責める。

でも、馬鹿にされたと感じて腹を立てるのは、自分がこの人は馬鹿にしてもいい人間なんだと思って馬鹿にしていたからであり、他人を差別して、馬鹿にしてもいい人間だと思うから、自分もその中の一人として見られたことに腹を立てるのです。

だから、たとえ相手がどんなに愚かな人間であっても馬鹿にしていい人間なんていない。そうやって馬鹿にしてもいい人間を作って、自分は馬鹿にされない所に立って安心しても、馬鹿にしたら、馬鹿にされた時に苦しまなければならない。

自分だって馬鹿にされたら苦しいもの。それは馬鹿にされたことよりも、自分は馬鹿にされるのに相応しい人間だと見られたことが苦しい。

そう思ったら、この世に馬鹿にしてもいい人間なんていない。こんな奴だから馬鹿にしてもいいんだと思うことはやめて、どんな相手でも馬鹿にしたら、馬鹿にされた時に苦しむのだと思ってやめてゆく。

こいつは馬鹿にしてもいい人間なんだと思って馬鹿にする人ほど、苦しみもまた大きくなるのですね。
寂しいのに孤独になろうとする。
幸せとは、今ある時間をどのように使うかで決まるように感じます。
どれだけお金があっても、どれだけ物に囲まれたとしても、それだけでは幸せにはなれない。

それらのものを使って、どのような時間を過ごすか、それが大事なんだと思います。

子どもを見ていて思うことですが、子どもはあれが欲しい、これが欲しいと物をねだる。

だから、仕方ないなあと言って、買ってあげたら子どもは幸せかと言えば、買ってくれたおもちゃで一人で遊んでいても、つまらない。一緒に遊んでくれる人がいなければ、子どもはどんなに珍しいおもちゃに囲まれても、楽しくはないのです。

それと同じように私たちもどんなに物に囲まれたとしても、自分と一緒に過ごしてくれる人がいなければ、楽しく過ごすことはできない。

でも、私たちって独りになると寂しいくせに、人と一緒にいる時は、欲に耽って、相手のことを見ていないことが多い。

この相手を見るということが大事な筈なのに、できている人が少ない。

それは小さい時に親が自分と一緒に過ごしてくれず、親に見てもらいたくて声をかけても、あっちに行ってなさいと断られたことが多かったからだと思います。

だから、寂しさを埋めるために欲に走った。あれが欲しい、これが欲しいと要求するのです。そうやって欲しいものが手に入ったら、親は自分の方を見てくれるのだと思ったからだと思います。

でも、どんなに欲しいものが手に入っても、親は私のことを見てくれない。だから、一人で遊ぶしかなかった。そして、いつしか一人で遊ぶことになれて、寂しさを誤魔化す為に欲に走るようになってしまったのだと思います。

誰もが自分のことを見てもらいたいのに、実際に見てくれる人がいても、欲に走っている為に大事にしない。

これでは自分を見てくれる人も自分から離れてゆき、自分を孤独にしてしまう。

子どもの時に如何に自分のことを見てくれる人がいたか。それによってその人の幸せは大きく変わってしまうようになるのだと思わずにおれません。


他人を責めるのは
よく相手のこんな所が悪い、あんな所が悪いと言って否定する人がいる。

そうやって、相手を否定することによって、相手が如何にダメな人間なのかを相手に認めさせようとする。それでダメな人間だと認めさせて、何がしたいのかと言えば、自分の中にある不安や寂しさや怒りなどの穢れを相手に押し付けたいだけ。そうやって、自分の心を楽にさせたいと思っている。

自分が苦しいから、相手を責める。
責める為に相手の悪い所を探す。

みんな自分の心に溜まったゴミを吐き出す相手を探している。

そうやって、自分の常識に合わない人を見つけては、怒りが吹き上がり、自分の中にある穢れを吐き出す。

私は思うことだが、他人を責めずにはおれない人って、自分の心の中にあるものを汚いゴミに変えてしまう人なんだと思います。
どんなに綺麗なものを心の中に入れても、それをゴミに変えてまうのが穢土の住人。

相手に向ける感情は自分に向けられた感情。相手のことをダメだと思う人は、それは相手がダメなんじゃなくて、自分がダメな人間なんだと思っているから。

常に自分のことをダメだダメだと思っているから、その反動でダメなのは自分ではなくて、相手の方だと思ってしまう。

だから、相手がダメだと認めたとしても自分の心は楽にはならない。

この苦しみから抜け出す為にはダメなのは自分じゃないよと言ってくれる人が大事。
ダメだと思っている人ほど、自分は一人で生きてゆける強い人間なんだと思いたい。

でも、一人で生きてゆけるようになりたいと思っても、一人ではいきてゆけないと思うから、自分はダメな人間なんだと思ってしまう。

ダメな人間だと思う人ほど、勇気を持って他人に頼ることが必要。

でも、そんな人ほど他人を信じることはできず、一人になろうとする。一人になっても寂しいだけ。自分の為に他人に頼る心を持つことが大切なことなんですね。
天に向けて唾を吐く
分別心とは自分を白い自分と黒い自分に分ける心。

自分が正しい所に立っている間はどんなに相手が苦しむと分かっていても、相手は自分ではないと思って否定してしまう。
正義は、時として、人を無慈悲にさせる。
それは、自分は正しいことをしたのだから、何が悪い、と思っているから。だから、自分が言ったことでどんなに相手が傷ついたとしても、何とも思わない。

しかし、そうやって無慈悲に相手を傷つけたことは、自分が正しさが否定された時に返ってくる。

私たちは相手と自分は関係ないと思っているから、平気で相手を傷つけてしまう。でも、そうやって自分とは関係ないと傷つけたものは、自分へと返ってくる。だから、私たちは正しい所に立って、相手を否定してきた人ほど、自分の間違いを指摘されると言い訳をして自分の間違いを認めようとはしない。

でも、どんなに自分の間違いを認めようとしない人も臨終には自分の犯した罪がすべて返ってくる。それは臨終は自分が正しいと思って信じてきたものが崩される瞬間であり、その時に自分が他人に対してしてきた悪が見せつけられるからだ。

他人にやることは未来の自分に対してやっていることと同じ。他人に対してやったことは天に唾を吐くように、必ず自分の元へと返ってくる。 
そういう意味で、どんなに悪い相手も否定してはならないのですね。
省みよ、日に幾たびも省みよ
他人から注意をされた時、素直に自分の間違いを認めることは難しいなと思います。

口ではごめんなさいと言いながらも、心の中では、でも~…、と言い訳の心や反発の心がムクムクと吹き上がってくる。

それはきっと注意されることで、自分の存在さえも否定されたように感じるから。

人間とは誰しも自分が正しいと思っていることに従って生きている。そして、正しいことをしているから、まるで自分の人生は間違いないものなんだと安心している。
それが注意されたことで、自分が正しいと思ってきたことが否定されたように感じてしまう。それはまるで自分の人生を否定されたように感じるので、自分の間違いを素直に認めることはできないのである。

たとえ口では悪かったと言ったとしても、心の中では、これはこうだった、あれはああだったと言い訳をして、結局は自分は間違っていないという所に立ってしまう。
だから、自分の間違いをいつまでも認めることはできない。

本当は自分のこんな所が間違っていたんだなと、その部分だけ間違っていたと認めたらいいのに、自分の人生そのものを否定されたと感じてしまう。

それほど私たちは自分の正しさに従って生きているのですね。

この正しさを離れて、相手の注意を聞けたら、この世はずっと生きやすくなるのに。

他人の注意を聞くことは難しいですね。


プロフィール

上田祥広

Author:上田祥広
管理サイト
浄土真宗講義



最近の記事



ブログランキング

FC2ブログランキング



最近のコメント



カテゴリー



FC2カウンター



ネットサーフィンの鉄人

ネットサーフィンの鉄人



ブログ全記事表示

全ての記事を表示する



RSSリンク



てくてく…



お友達のブログ

このブログをリンクに追加する



グリムス