悲を修めると瞋りの心を断ち |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
今回も仏教聖典の次の言葉
「悲を修めると瞋りの心を断ち」
から説明をします。
------------------------------------------------------------ 悲を修めると瞋りの心を断ち
瞋りの心とは、人から不快な思いにされたり、
馬鹿にされたり、踏んづけられたりした時に、心にたまってゆく
相手を許せないと思う恨みの心、また、耐えられなくなって爆発する心
を言います。
この心は、自分を傷つけ、他人を傷つけ、今まで築き上げてきた
人からの信用を一気に焼き払う恐ろしい心です。
この心を断ち切るには、悲を修めることが大切です。
悲とは、“自分、自分”と“自分”に向いていた心を
相手の苦しみに向けてあげることです。
相手の苦しみに心を向けると、みんな色々なことで苦しんでいるんだな~
と知らされます。もちろん、自分も苦しんでいますが、
苦しんでいるのは、自分だけじゃなない。いや、自分以上に苦しんでいる人が
世の中にはたくさんあると分かってきます。
そこから、その人たちの苦しみを抜いてあげたいと思う心が
悲であり、それは私の瞋りの苦しみを抜いてくれます。

猫観察中…
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慈を修めると貪りの心を断ち |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
今回は前回紹介した仏教聖典の内容の説明をします。
------------------------------------------------------------ 慈を修めると貪りの心を断ち
貪りとは“自分、自分”と自分の欲望を優先する心です。
自分の欲望を優先する人は、その為にまわりの人が傷ついたり
不快な思いになっていることに気づきません。
そして、自分の欲望を貪って、気持ちよくなっている間に、
まわりの人たちはあきれて離れてしまい、最後は孤独に
なってゆきます。
また、貪りの心は常に不安がつきまといます。
だから、自分の欲望を優先する人ほど、実は心で激しい不安におびえ
苦しみ続けるのです。
では、どうしたら貪りの心を断つことができるのか?
それは、慈の心を起こすと貪りの心は消えます。
慈とは“自分、自分”と自分に向いていた心の向きを
“相手、相手”とまわりの人々に心を向けることです。
そして、皆さんの心で、今、どんなことを感じているのか、
喜んでいるのか?悲しんでいるのか?
自分の受け取り方とのズレを感じ、
自分を忘れて、相手の心を幸せにしてあげようと努力することに
よって貪りの心は消えます。
ここで注意して頂きたいことは、どんなに皆さんの為と思って
頑張っていても、相手の心を見ずにただ自分の思いばかりを
優先して、“相手の為、相手の為”とやっていても、
貪りの心が消えるどころか、余計、増えてゆきます。
相手の心を見て感じ、行動することによって
貪りの心は消えてゆきます。
 イオンに来ました。
写真はケータイを触りたがっているところ。
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四無量心 |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
今日は、仏教聖典から心に残ったところを紹介します。
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またここに道を求める者の修めなければならない慈と悲と喜と捨の
4つの大きな心(四無量心)がある。
慈を修めると貪りの心を断ち、
悲を修めると瞋りの心を断ち、
喜は苦しみを断ち、
捨は恩と恨みのいずれに対しても差別を見ないようになる。
多くの人々の為に、幸福と楽しみとを与えることは、
大きな慈である。
多くの人々の為に、苦しみと悲しみをなくすことが大きな悲である。
多くの人々に歓喜の心をもって向かうのが大きな喜である。
すべてのものに対して平等で、分け隔てをしないのが大きな捨である。
(仏教聖典)
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この意味について次回説明します。
 よいしょ、こらしょ。
郵便局まで一生懸命運んでくれました。
帰り道はパパにかつがれていたあかりです。
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増上慢 |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
仏教に増上慢と言われる自惚れ心がある。
これは仏教の真理を頭だけしか分かっていないのに、
自分はもう分かったと自惚れてしまうことを言います。
頭しか分かっていない人は、分かってない人に
上から目線で話をします。
“あなたはこんなことも分かっていないのか…。
ど~れ、私が教えてあげよう”
と先生面して話しています。
だから、教えられている側は踏んづけられているように感じるのですね。
でも、教えている当の本人は分からない。
私は、ものを教える人は、この増上慢にならないように
気をつけなければならないと思うのです。
だって、増上慢になっているということは、
相手を馬鹿にしているからです。相手を尊重し謙虚にならなければと
どんなに思っても、思いすぎることはないと思います。
自分は学ばせて頂いているという気持ちをいつまでも忘れないでゆきたい
ですね。
 パパの仕事場にやってきたあかり。 大はしゃぎだね。
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法鏡 |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
仏教は、自分の心の姿をありのままに映す鏡のようだと
言われますが、私たちは、ホント、自分の姿って分からないものだな~
と思います。
特に、自分がいいことをやっているつもりになっている時程、
相手から自分がどう見られているか、見えてない。
だから、本当は悪いことなのに、いいことだと思って
やり続けてしまう。
それでいて、こんなに良いことをしたのに、なんで幸せが
やってこないのだろうと不思議に思っている。
こんな時、自分の姿をありのままに映す鏡があったら、
恥ずかしいな~と反省できるのに…。
やっぱり人間って自分の姿を正しく見ることはできないの
ですね。
 おじいちゃんの真似をするあかり。
腰に手を当てて歩いています。
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