因果の道理 |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
私たち1人1人が生きている世界は1人1人の心が生み出した
世界であると仏教では教えられています。
私たちがいつも抱いている心は、自分の心で成長してゆき、
環境を生み出し、やがて、自分の心とそっくりな世界を作り出して
ゆきます。
人の悪口を言っている人は、
その人の心の中で他人の欠点ばかり思い浮かべている人だから
やがて、その人は、人から悪口を言われるような欠点ばかりの人になり、
また、不平、不満を言っている人は、自分の思い通りにはならない世界を
生み出してゆく。
反対に、人の幸せばかり考えている人は、幸せな世界を生み出してゆく。
自分の世界は自分の心が生み出したものだから、どんな世界になったと
しても、受け止めてゆかなければならない。
みんな、この法則を知らないから、苦しみながら苦しみの世界を
生み出しているのだと思います。
恐ろしいですね。

バイクでどこいくの(^O^)?
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信心 |
こんにちは上田です。
私は浄土真宗を学んでいますが、よくそこで信心という言葉が
でてきます。そこで信心とは何だろうかと思います。
信心とは、調べてみると仏教では自己中心の心を離れた、清らかな心であると
教えられていました。
ふと、考えてみると、私たちは自分の姿を静かに見つめることが最も恐ろしい
ことではないかなって思います。
だって、自己中心的な心で見た、主観的な世界では、いつも、自分は傷つかずに
きれいであると思っておれます。
でも、客観的に見た、私の姿は本当にそんなきれいな状態なのか、
と考えたとき、とても、そんなことは言えないな~と反省させられます。
自分の心をコントロールすることができず、怒りが吹き上がる自分。
欲を起こしながら、それを止められない自分。それでいながら、
善人ぶって、他人を非難している自分。全部、全部、
認めたくない、見つめたくない、自分の姿であると感じます。
そんな自分の姿と向き合って、前へ進むことのできる人は
心に清らかなものを抱えている人じゃないかなって思いました。
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疑情 |
こんにちは上田です。
仏教で疑という心がある。これは、真面目に善いことをしようとしても、
煩悩が吹き上がり、とても前に進めないと知らされてくると吹き上がってくる
心です。
自暴自棄となり、急に今まで頑張ってきたことは何だったのかと思い始め、
苦しみから逃げ出そうとしてしまう。
これを仏教で疑と教えられています。
この言葉を学んで、思うことですが、私たちは苦しいことがあると、
そこから逃げ出したいと思います。
人とけんかをすると、その人ともう会いたくない。
顔も見たくないと思ってしまう。
でも、その心と向き合い、前へ進むことのできる人は
本当に勇気のある人だと思います。
何度も、諦め、何度も、やり直し、たくさんの涙を流して
みんな成長してゆくんだなと思いました。
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地獄は一定すみかぞかし |
こんにちは上田です。
読んでくださり有難うございます。
親鸞聖人のお言葉に「地獄は一定すみかぞかし」というお言葉があります。
これはどんな御心を言われたのだろうか。
私たちは善悪を問題にする心がある。
善は素晴らしい、悪はみにくい。
だから、自分の中で悪はやらないように善はやるように努力している。
そうやって頑張っているといつしか、自分は少し善人になれたように思えます。
だって、こんなにも頑張ったのだから、当然、少しは悪が無くなっていないと
納得できないですよね。
でも、そんないい気持ちにひたっていると、縁がやってきて、
みにくい悪が吹き上がる。そうなると、自分にショックを受けます。
「自分は変わっていなかったんだ…」
そんな自分に落ち込みます。でも、そんな経験を何度もして、
自分の黒い部分をちゃんと受け止められた人は、
自分って、ホント人を傷つけてばかりだな~と認められるようになってくる。
その心は決して暗くない。明るさとすべてを受け止める心の広さがあります。
「地獄は一定すみかぞかし」この親鸞聖人のお言葉も
自分の現実をしっかりと受け止めた末のお言葉ではないかなって
思いました。
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