地獄の鬼 |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
仏教では地獄の罪人が鬼によって苦しめられている姿が
説かれている。
そこで罪人が鬼に対して
“自分がこんなに苦しい思いをしているのに、どうしてお前は
楽しそうなんだ”と聞くと、
鬼は“かつて、お前も同じことをしていただろう。
その時の報いを今受けているだけだ”と答えたという。
その時は罪の報いとは恐ろしいものだと思ったが、
最近、ここにでてくる鬼とは誰のことだろうと思いました。
苦しんでいる人を見てかわいそうだと思うのは人情だと思います。
でも、その人が間違ったことや悪いことをして苦しんでいたらどうでしょうか?
きっと私たちはその人に対して、過去の罪の報いで苦しんでいるのだから、
反省しなさい
とその人に対して冷ややかに思う気持ちはないでしょうか?
自分は正しいという所に立っている人ほど、間違ったことをして
苦しんでいる人に対して冷たい。これを智慧だと言う人もいるけど、
実は、その心が鬼なんだなと感じました。
世の中には自分は優しいと思っている鬼がたくさんいると思いました。
 今日はパパにお客さんが来たので、お菓子を食べながらはりきるあかりでした。
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疑情 |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
人間にとって最も嫌なことは自分の真実を知ることじゃないかなと
思います。
私たちは誰しも自分を価値ある人間と思いたい。
それは価値のないものは生きる資格がないと
無意識に思っているからだと思います。
仏教では、このように善悪とらわれることを疑情と教えられ
これが私たちを苦しめる、苦しみの根本であると教えられています。
世の中の人で生きる価値のない人間はいません。
すべての悪を許せるようになった時、本当の自分の姿を
見つめられるのではないかなと思いました。
 帽子をかぶって喜ぶあかり。
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煩悩を受け止める |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
人間には煩悩があります。
煩悩とは身を煩わせ、心を悩ませるものですが、
私たちは頭では分かっていても、
頭で分かっているようには動けないものだな~と思います。
こんな所で怒ってはいけないと思っても、怒ってしまう。
欲を起こしたら駄目だと思っても、理性がきかない。
自分のことでありながら、自分の思い通りにはゆかない自分。
まさに煩悩から離れられない自分だな~と感じます。
だから、煩悩を無理に抑えるのではなく、
これもまた私なんだな~と
そのまま受け止めてゆくことによって、
自分もまわりの人たちも許せるようになってゆくのかなって
思いました。
 電話ごっこで大活躍のあかり。
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捨は恩と恨みのいずれに対しても差別を見ないようになる |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
捨は恩と恨みのいずれに対しても差別を見ないようになる。
捨とは“俺が俺が”と自分を主張する心、自分を優先する心を
捨てて、相手と接することを言います。
私たちは自分を中心に物事を考えているから、自分を大事にしてくれる人には
好意を抱き、自分を非難してくる人には、恨みの心がわいて、どうしても平等に
人と接することができません。
この自分を中心に物事を考えることを仏教では“我”と言われ、
我を捨てることを捨と言われます。
わだかまりを捨てて、人と接してゆけたらいいですね。

久しぶりにみんなで外食。
トヨタ系が金曜休みなので道路が渋滞していました。
車の中でも元気だったけど、焼肉屋でもすごかったです。
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喜は苦しみを断ち |
こんにちは、上田です。
読んで頂き有難うございます。
喜は苦しみを断ち
喜とは、自分が受けているあらゆる環境を喜びを持って、
受けとめ、人と接してゆくことを言います。
私たちは自分の心が自分の運命を生み出してゆくことを
知らないから、苦しい運命がやってくると、
他人を恨み、世間をのろい、苦しみの底へと堕ちてゆきます。
しかし、ひとたび、この因果の道理が本当に分かったのならば、
苦しい目にあっていることは、自分の心が苦しんできたことを
教えてくれるご縁であり、心の種まきを変えてゆくことによって、
もっと幸せになれることが分かるから、喜びをもって、あらゆる
苦しみに向かうことができます。

あかりとツクシをとりにいきました。
あかりも一緒に摘みました。
途中でおばあちゃんとバッタリ。
おばあちゃんの手にしている袋にはツクシがたくさん入っていました。
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