幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
二種深信
仏法を求めるものは、仏を目指す。仏とは、自分のことよりも相手のことを第一に考えられる人。一緒にいても自分の心が傷つけられることがない人。心から安らかな思いにさせてくれる人。この人の前ではどんなことも言えると思える人。そして、目の前の相手に溢れるばかりの愛情を注ぎ込んでくれる人。これが仏。
このような仏を目指し、相手に安らかな思いでいてもらいたい、愛情を与えてゆきたいと思って、努力してゆくと、相手のことよりも自分のことしか考えない自己愛一杯の自分の姿が見えてくる。
結局、私たちの行動はすべてこの自己愛を満たすためにしか動いていない。愛情を与えることよりも、もらいたい一杯の自分。それでいて自分のことを蔑ろにされると腹を立てて、相手を責めたり、心の中で切り刻む自分。相手を安らかにするよりも、相手を思い通りに動かしたいという心しかない自分が見せつけられる。
そうなると、自分ってつくづく罪悪生死の凡夫だなと知らされる。そんな自分がそれでも相手の幸せを念じて形だけでも愛情を注ごうとしているのは、これは自分の力ではない、阿弥陀仏のお力なんだなと知らされる。それでも、私たちは自惚れているから、自分には相手を思う優しい心ぐらいあるのではないかと思う。だからこそ、相手に対しても優しい気持ちを期待する。自分は優しい気持ちで接しているのだからと思っているから、相手にも優しい気持ちを期待して、自分ばかり優しい気持ちを与えているのに、相手から優しい気持ちがやって来ないと、勝手に相手に対して酷い、なんで私がこんなに寂しい思いをしているのに、温かい言葉の一つもくれないのだと非難する。このように思うのも、自分には優しい気持ちがあると思っているから。それが聴聞すると、自分の心がより深く見えて、そんな人のことを思った行動も、心の奥底にはこんなにやっているから自分のことを見てもらいたいという自分のことしか考えない心があることが知らされ、つくづく私は自己愛しかない罪悪生死の凡夫だなと、より深く知らされる。これが機の深信。深信とは、深く信じること。それは一度の体験ではなくて、自分は罪悪生死の凡夫だなと何度も何度も知らされて、知らされる度により深くより深く知らされる。だから、今私が自己愛しかないなという思いも、それもまだ浅い理解でしかない。それが段々と深く深く知らされる。これが深信。それと同時に、こんな自分だからこそ、相手の為に少しでも愛情を与えてゆきたいと思うようになる。そして、それは自分の心ではない。これはすべて阿弥陀仏のお力であり、自分の力ではないのだなと知らされる。これが法の深信。この理解もより深くより深く知らされる。これが二種深信。この二種深信は、魂の臨終で自己愛がなくなると同時に終わる。そして、心から相手の幸せを念じてあげることができる弥勒菩薩と同格の菩薩がこの世に誕生するのでさ。
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