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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
他人の目が気になる
他人の目が気になるという人がいる。
このような人は自分が他人からどう見られているか気にして、相手の言動に一喜一憂する人。でも、どんなに他人の目が気になると言っても、相手が本当はどう思っているか。相手の気持ちを聞かなければ分からない。
だから、自分が他人の目を気にして、相手がこう思っているのではないか、ああ思っているのではないかと思うことも、すべて自分の思い込み。
他人が自分のことを嫌っていると思うことも、自分がそう思っているだけで、相手は何とも思っていないかも知れない。
それでも気になるのはどうしてか?
それは本当は嫌いなのは、他人ではなくて、自分だから。
私は自分の中で醜い心や汚い心が見えると嫌になる。だから、そんな嫌な心は起こしてはならないのだと否定して、少しでも綺麗な心になりたいと思っている。
ところが、どんなに綺麗な心になりたいと思っても、醜い心や汚い心は折に触れ、縁に触れ、吹き上がってくる。
だから、自分でもこんな自分のことを嫌だなあと思うように、他人も自分のことを嫌だなと思うのではないかと不安なんです。
だから、心では醜い心を思っても、姿形では見せないように振る舞う。
でも、どんなに振る舞っても、醜い心が相手に伝わってしまうのではないかと思って、他人の目が気になるのです。
だから、他人のちょっとした態度に自分のことが嫌いだから、そうするのじゃないかと思って他人の目が気になるのです。
では、どうしたらいいのか?
それは自分の醜い面、汚い面があることを、これも人間だから仕方ないと許してゆくことです。
人間だから綺麗な心もあれば、醜い心もある。それを汚い心はダメ、綺麗な心にならないと否定すると、醜い心はより醜く自分の心に起きてきます。
仏教に浄穢不二と言う言葉があります。これは綺麗なものと汚いものは二つに分けることはできないということです。
私たちは綺麗な心になりたくて、汚い心を否定します。それは綺麗な心と汚い心は二つに分けることができると思っているからです。
でも、二つに分けようと思って、汚い心を否定すると、否定されたことによって、汚い心はより醜く汚い心になって、私の心に吹き上がります。
人だって、否定されたら心は醜くひん曲がります。心だって同じ。否定されたら、否定されたことによって傷つき、醜くひん曲がってゆきます。
だからこそ、醜い心があっても、自分は人間だから、醜い心があっても仕方ないと許してゆく。
本当に綺麗な心とは醜い心のない心ではなく、醜い心があっても、それを否定せず受け止めてゆく温かい心のこと。それが仏の心です。
仏様は私にどんなに醜い心があったとしても、そんな心のあるあなたが可愛いよと言って大事にして下さいます。
仏に愛されていると思ったら、たとえ他人から嫌われたとしたも、まことのない人から愛されるよりも、まこと一杯の仏様から愛されたらいいと思ったらいいのです。
私たちは仏法者。人からよく見られることよりも、仏様に喜んでもらえるように生きた方がいい。
自分は仏様から愛されていると思ったら、他人から嫌われたって平気です。
まずは綺麗な心もあれば、醜い心もあるのが人間と思って、醜い心を許してあげれば、醜い心も起きて来なくなりますよ。

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