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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
寂しい感情
他人の悪い所が見えて、この人たちと仲良くしたいと思えない。
なぜ悪い所が見えるのか?人間には良いところもあれば、悪いところもある。それなのに悪い所ばかり見えるのは、相手に悪い所があるということを分からせたならば、相手は心から自分の間違いを認めて、自分の意に沿うようになると思うから。
では、自分の思い通りに悪い所を直してくれたら、満足か?
満足しない。相手がどんなに悪い所を直したとしても、他に悪い所を見つけて指摘したくなる。
では、どうして他人の悪い所が気になるのか?
それはその人が楽しそうにしているから。相手が楽しそうにしていると、自分は寂しくなる。この寂しさを見たくないから、相手を否定して、寂しくならないようにしている。
だから、仏教的に言ったならば、寂しいならば、自分の感情を寂しくさせないように、自分から輪の中に入っていったらいい。ところが、向こうから声をかけてくれたならばいいが、自分から声をかけるのはプライドが邪魔して頭を下げて輪の中に入ることはできない。だから、寂しさを抱えていながら、どうせ私は一人なんだと思って一人になろうとする。
ここから一人の方が楽という気持ちができる。でも、一人が好きというのは、寂しいという感情をほったらかしにしている。
でも、寂しいという感情を見ないようにしたら、心は他人によって乱されることなくフラットな状態でおれる。このフラットな状態でいることが仏教で求められることではないか?
確かにフラットな状態になることが仏教の目的。でも、どんなにフラットな状態になったとしても、感情をほったらかしにしたならば、それは小乗の悟りであって、本当の禅定ではない。このような小乗の悟りは感情を無視した悟りなので、まわりの人はこの人のことを自分の気持ちを分かってくれない人だと見て、結局、孤独になる。
小さい時に自分の感情を大事にされず、ほったらかしにされた人は自分の感情に寂しさを抱えていながら、それに気付かない。こういう人が寂しさに気づくためにはどうしたらいいか?
それは他人の寂しさを解決するように取り組むことが大事。
そうすることによって、自分の寂しさにも気づくようになる。
親鸞聖人はご自身のことを愛欲の広海に沈没しと言われた。この愛欲とは、自分のことを愛して欲しい、大事にして欲しい、認めて欲しい、分かって欲しい、無視しないで欲しいという感情。
この愛欲こそ、人間を根本的に動かしているもの。私たちはこの愛欲を満たすために人間に生まれてきた。
この愛欲のことをまた自己愛と言う。この自己愛によって様々な煩悩が起こり、苦しみが生み出される。
例えば、他人が楽しそうにしていたら、その人が楽しそうにしていることを心から喜んであげたらいいのに喜べない。それどころか、妬ましく思う。この妬ましいという心が苦しみであり、その根本には、自分のことを無視されたという自己愛がある。この自己愛がなくなり、自分のことを見てもらいたいという心から、相手のことを見てあげたいという心に変わること。自己愛が慈悲に変わること。これが解脱。解脱とは、苦しみから離れた世界。私たちは自己愛によって苦しみが起きている。だから、苦しみから離れる為には、自己愛からも離れなければならない。
では、どうしたら自己愛から離れることができるのか?
それは自己愛を満たしていったらいい。自己愛は満たすことによって、離れることができる。
では、どうしたら自己愛を満たすことができるか?
その為には、他人から自分のことを大事に思ってもらうことが必要。でも、どんなに他人から大事にされたとしても、自分が相手なことを大事にしようと思わなかったら、自分の心が鏡のように跳ね返って、どんなに相手から大事にされたとしても、心の中では相手は自分のことを面倒臭いと思っているのではないか、嫌だと思っているのではないか、自分のことを利用しているだけではないかと思って喜べない。
だから、私たちはまず相手のことを大事に思ってあげることが必要。
大事に思うとは、相手の愛欲を満たしてあげる。相手の愛欲を満たしてあげることで、自分の愛欲も満たされる。
寂しさを感じない人はその人の感情はどうせ私のことを分かってくれる人はいないと諦めている。そんな人が相手の愛欲を満たしてあげることで、感情はなんで相手の感情は満たしてあげるのに、自分の感情は満たしてあげないんだと諦めていた感情が諦められず湧き上がる。そうなると、寂しくなる。つまり、相手の感情を満たしてあげることで、自分の寂しさにも気付くようになる。
こう聞くと、せっかく寂しさを見ないように生活していたのに、その寂しさが出てくることは良くないことではないかという人もいる。
では、私たちは何のために生きているのかと言えば、自己愛を満たすため。みんな潜在的に寂しさを抱えている。でも、満たすことができないから、見ないように見ないようにしている。でも、それって諦めの人生ではないか?
私たちはこの寂しさを解決する為に生きている。寂しさに気づいたならば、頭を下げて、輪の中に入っていく。寂しさを解消する為にプライドを捨てる。
でも、プライドを捨てることができないから、飲み屋に行く。
なぜ寂しいことに気づいてゆくことが大切なのか?
それは仏教では、理性と言われる上の心と感情と言われる下の心がある。私たちは生きている時は上の心の方が活発に活動しているが、死ぬと上の心は無くなってしまう。そして、下の心が次の生へと引き継がれる。だから、この感情を無視していたら、人生何をしたとしても、意味がなかったとなってしまう。最後には崩れるものの為に時間を使うことは空しい。だから、次の生があると分かると、理性よりも感情の為に生きようと思うようになる。
自分の感情も他人の感情も大事にしてゆくことで、表面は他人に柔軟に合わせながら、根っこの方ではビリッとも動かない草のような禅定の心になることができる。この心が本当の意味でフラットな心になるということ。
私たちは他人の為に自分の感情を乱されたくない。だから、何があっても自分の気持ちは変わらない。そんな強い心になりたいと思っている。しかし、そうなると、共感できない。だから、自然と他人は離れてゆく。他人が離れると孤独になるので、自己愛は満たされない。このようにできるのは、自分の心にある寂しさに気づいてない時だけ、寂しさに気づいてないから、自分の感情も他人の感情も無視して、フラットに行動することができる。このような人は一人の方が楽だと思っている。そうやって一人で思い通りに生きている人ほど、死んでゆくときには、自分の人生は何だったのかなとなる。
私たち死なないと思っている時には、もう間違いのない現実だと思っていたことが、いざ死んでゆかなければならないとなると夢のように感じられる。そして、仏教で教えられていた感情のことは生きている時は夢のようにあるかないかハッキリしないものだが、いざ死んでゆかなければならないとなると、どうにもならない現実となって目の前に迫ってくる。
だから、感情が大事に思えないのは、自分はまだまだ死なないと思っているから、そんな私もいつか死ななければならないと分かったならば、もう自分の感情を無視することはできなくなる。
では、感情を大事にしなければならないと分かったとして、どうしたら自己愛を満たすことができるのか?
その為にはまず相手の自己愛を満たしてあげる。相手の自己愛を満たしてあげると、相手は自分のことを必要としてくれるようになる。必要としてくれるのは有り難い。それは自分は一人ではないと思えるから。
では、具体的は、どうしたらいいのか?
まずは一人が楽だという人は、他人と一緒にいることに心がけたらいい。他人と一緒にいると面倒臭い。一人なら、何でも自分の思い通りに決められるのに、一緒にいたら、相手に合わせなければならない。でも、仏教は少欲知足を教えられる。自分の思い通りにならないくらいが自分の心にとってちょうどいい。確かに一人の方が何でも自分の思い通りにできていいから、他人に合わせなければならないとなると面倒臭い。でも、面倒臭くても、他人に合わせてゆくと、やがて他人と一緒にいるのが当たり前になる。それは自分の心の中に他人がいつも存在するようになること。いつも何をするのもその他人のことを考えずにはできない。それは孤独な心とは違う、幸せな心。そうなることで、一人になると今までは感じなかった寂しさを感じるようになる。そして、この寂しさを解消する為に心がけて他人と一緒にいることで、やがて自己愛からも離れることができるのです。
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