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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
苦しみはどこから来るのか
私たちは同じものを見ても、その心を通して世界を見ているから、一人一人見ている世界は違う。借金を抱えて首が回らない人が時計の針の音を聞いたならば、“シャッキン、シャッキン、あの借金どうすんだー、どうすんだー”と聞こえるし、お金が貯まって貯まって仕様がない人が聞けば、“チョッキン、チョッキン、貯っ金せい、貯っ金せいー”と聞こえる。
私たちは過去どのような環境に生きてきたかによって、見える世界は違う。同じ水を見ても、人間が見たならば、その水を飲みものとして見るし、魚が見たら、住処として見る。

“手を打てば 鹿は驚き 魚は寄る 茶店の女中は返事する”

という歌があるが、同じ手を打つという音でも、鹿が聞いたならば、猟師の鉄砲の音ではないかと思って逃げるし、魚は餌がもらえるのかと思って寄ってくる。また、茶店の女中ならば、お客さんから呼ばれたと思って返事します。

このような受け取り方の違いはどうして起きて来るのか?

それはその人の心の世界によって決まる。
例えば、鹿の場合で言ったならば、鹿の心の世界はいつ猟師によって打たれるか。そんな不安の中でビクビクしながら生きている。

だから、手を打った音でさえも、猟師に打たれるのではないかと思って逃げてゆく。

それに対して、同じ鹿でも、奈良公園の鹿ならば、猟師に打たれて殺される心配はないので、手を打っても逃げてゆくどころか、餌がもらえるのではないかと思ったよ近づいてきます。

このように私たちは自分の心によって世界を見てるので、同じ水でも、餓鬼のように苦しんでいる人から見たならば、自分を苦しめる火のように見えるし、天人のように幸せな心から見たならば、キラキラ輝く宝石のように映るでしょう。

このように同じものを見ても、その人の心の状態によって世界の見え方が違う。ちょうど青色の眼鏡で世界を見たならば、見えるものすべて青色に見えるように、赤色の眼鏡で世界を見たならば、赤色に見えるように、世界が赤色に見えたからと言って、それは見たものが赤色なのではなくて、自分が赤色の眼鏡をかけているから赤色に見えているかも知れない。

この色に喩えているものは、その人の心の状態。例えば、いつも責められているのではないかと思って、ビクビクしている人は、ちょっとした相手の言動でも責められているように感じて苦しくなる。
また、馬鹿にされているのではないかという世界の中で生きている人は相手がちょっと挨拶を返してくれなかっただけで、馬鹿にされたと思って腹を立てる。

このように私たちは相手はこういう人だと決めつけて見ているが、それは自分の心がそんな世界の中に生きているから、そのように見えるだけで、現実には自分が見ている世界とは違うかも知れないのです。

では、この心の世界とはどのようにして決まるのか。

それは自分の心から普段どんな心が起きているか。それで決まる。例えば、人のことをいつも馬鹿にしている人ならば、その人の心は馬鹿にされているのではないかという不安に包まれますし、人を責めている人は、自分は誰かに責められているのではないかという不安が起きてきます。

このように天に向かって唾を吐いているように、他人に向かって起こした感情は鏡のように自分の元へと跳ね返り、返ってくる。

だから、いつも何かの不安に怯え苦しんでいる人は間違いなく自分の心から起こした思いによって苦しんでいる。

自分の心の世界は自分の心から起こす思いによって決まる。
これが仏教で教えられる因果の道理であり、これを体得して、苦しみから離れてゆく教えが仏教なのです。

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