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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
辺地懈慢
親鸞聖人は阿弥陀仏の十九願の人は、辺地懈慢に往生すると言われる。
では、この懈慢とは何か?
懈慢とは、どこかにそんな世界があって、そこに行くのではなくて、私の心が生み出す世界。私の心が求めているものが懈慢だから、私の心が懈慢という世界を生み出す。

懈慢とは、懈怠と驕慢。懈怠とは、楽がしたいという心。私たちが求めているものは懈怠。お金持ちになりたいと思うのも、お金持ちになったら、働かなくて済むから、楽が出来るから金持ちになりたい。いつも楽になりたいと思っているから、家に帰って、靴が閉まってないと腹が立つ。それくらいやっておきなさいと思っている。靴をしまうことぐらい、大変じゃないのだから、それくらいのことやってあげたらいあのに、他人のために動くのが嫌だし、楽がしたいから、しまってあげることはせずに他人が動いて当然だと思ってしまう。このように懈怠とは、他人のために動きたくないという心。他人のために動いても、そんなに大変じゃないのに、時間もあまりかからないのに、喜んで他人のために動いてあげることができない。できないどころか、それくらい気づいて自ら動かんのかとさえ思っている。相手が気づかないから、自分が気づいて、動かないといけない。まわりの人たちは気づかないから、楽をしてる。私は気づくから動かないといけない。損をしてると思う心。これが懈怠。だから、十九願の人は、一生懸命善に励む。それは往生したいから、その人にとって、善は往生する為の手段。だから、善は往生するまでやらなければならないが、往生したらやらなくていいと思っている。楽ができると思っている。そんな心で善に励んでいるから、その人の行く世界は懈慢になる。

次に懈慢の慢とは、驕慢の慢。私たちは何の為に頑張っているのかと言えば、優越感を味わいたいから、阿弥陀仏に救われて往生したならば、できなかった人たちを見下すことができるから。だから、頑張る。私たちの行動の原動力は優越感を味わいたいから。私たちは色々なことで他人を差別する。どちらが上か、どちらが下かにこだわる。そして、上だと喜び、下を見下し、下になると腹を立てて、今度は上になろうとして、頑張る。人間というのは、上か、下か、そんなことばかりが問題になる。他人から見下されないように必死に頑張り、自分をよく見せようとする。本当の自分はそうでないのに、他人前だけは自分のイメージが崩れないように格好つけようとする。それのどこがいけないんだ。少しでも自分のことをよく見てもらいたいと思う人が行く世界が懈慢。逆に懈慢でなければ喜べない。ここまで頑張ったら、完成だよ。頑張らなくてもいいんだよと終わりがなければ、頑張れない。いつまでも頑張り続ける世界だとしたら、何の為に頑張るのか分からない。頑張ることは苦しむことだと思っている。だから、ここで終わりとなる世界を私たちは求めている。それが懈慢という世界なのです。
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