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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
人はなぜ苦しむのか?
なぜ人生は苦しみになるのか?

それは思い通りにならないから。この思い通りにならないということは我の通りにならないということ。

じゃあ、我の通りになったら苦しむことはないのか?

ここで、我の通りになるとは、自分のイメージ通り、他人から見られること。

そもそも、我とはとうやってできるのか。

例えば、私は馬鹿にされない人間だという我を持っている人を例に挙げるならば。

このような人は、自分は馬鹿にされるのではないかという不安がある。だから、馬鹿にされないように振る舞う。

このように振る舞うことによって、私は馬鹿にされない人間だという我ができる。

ここで私は馬鹿にされない人間だと思うということは、世の中には馬鹿にされてもいい人間がいると思っていること。

このように世界を二つに分けて例えば、馬鹿にされない人間も馬鹿にしてもいい人間に分けることを仏教で分別心という。

そして、私たちは、自分は馬鹿にされないという所に立って、馬鹿にしてもいい人間に対してゴミ捨て場にゴミを捨てるように負の感情を送っている。

それが自分が馬鹿にされたと感じた時に、自分の元へと跳ね返ってくる。

私が見ている相手とは、私の心が生み出した相手。その相手を否定することは自分を否定しているのと同じ。

だから、自分が馬鹿にされているのではないかという不安が起きるのは、この人なら馬鹿にしてもいいと馬鹿にしたから。

こういう人なら馬鹿にしてもいいと思って馬鹿にするのは、自分はこういうことはしないと思っているから。でも、自分の見ている相手に、私たちは自分の心を投影している。だから、本当の相手とは違う。

だから、こういうことが悪いと思って自分が馬鹿にしている所は、自分の中にもあるもの。でも、自分はそれは悪いものだと思って、否定している。否定して出さないようにしている。だから、自分にはないと思っている。

だから、心の中で、その悪を持っているのに、姿形ではやってない。やってないから、やっている人とは違うと思って、出来ている所に立って、相手を馬鹿にしている。

ところが、相手と同じ心を私は持っている。持っているから、自分の中に同じものがあると、相手を馬鹿にしているように、自分も馬鹿にされているように感じる。だから、どんなに他人から馬鹿にされない人間だと見てもらったとしても、馬鹿にされるのではないかという不安が消えない。

私たちは馬鹿にされたと感じた時に、馬鹿にしたことを反省するのではなくて、どうしても馬鹿にされた、我が傷ついたということを問題にしてしまう。それほど、私たちにとって我が大事。

ここから離れるためには、画に対するとらわれから離れなくてはならない。

これを教えられたのが道諦。

私たちは結局、他人からどう見られるかを問題にしている。この他人からどう見られるかから離れる為の教えが、チリを払わん、アカを除かんなのです。

このことについては、また次の機会に話したいと思います。
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