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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
我は臨終で崩れる
なぜ仏教では、自分を知ることが大事だと教えられるのか?

それは私たちは自分を知る為に生きているから。

でも、多くの人は、自分を知りたいと思って生きてないし、求めてはいない。それはどうしてか?

それはすでに自分はこういう人間だというセルフイメージを持っているから。仏教では、このセルフイメージを我と言う。

では、我とは何か?

我とは、他人が自分のことをどう思うのか。他人の目に映った自分。例えば、ブランド品で身を固めるのも、ブランドには価値があるから、価値のあるものを身につけた自分のことも、まわりの人は価値のある人間と思ってもらえるように思うから。

ここで大事なことは価値のあるものを身につけたとしても、中身の自分は何も変わる訳ではないということ。何も変わらないのに、ブランド品を身につけただけで、まわりの人の自分を見る目が変わる。自分のことを価値のある人間だと見てくれる。これが我。

例えば、テレビでツボを鑑定してもらったら、三百万もした。そうする会場から拍手が湧く。そうすると、なぜツボを持ってきた人が深々と頭を下げる。これは不思議なこと。価値があるのはツボの方なのに、まるで自分が認められたように喜ぶ。これが我。

私たちは自分のことを我だと思って、少しでもみんなが価値があるものを手に入れようと頑張っている。例えば、多くの人がお金や地位や名誉、財産を求めるのも、それが世の中の人が認める価値だからであって、そういうものを手に入れたら自分は価値のある人間になったと思えるからです。

しかし、どんなに価値のあるものを手に入れて自分に自信をつけたとしても、これらのものは自分ではない。だから、死んでゆく時には何一つ持ってゆくことはできない。つまり、これが自分だと思うものすべてを失うのです。こうなった時、じゃあ、自分とは何者かとなる。すべての価値を失って、それでも自分に価値があると思えるか。本当は自分のことを何も知らなかったのに、私たちは自分を我だと思っているから、自分について何も疑問を持つことなく臨終まで生きてしまう。

そして、臨終にすべてを失い、今まであった自信までも失い。不安と後悔の中死んでゆかなければならない。これが人間の人生。

私たちが人生の中で手に入れたものは、すべて我ばかり、何一つ本当の自分を教えてくれるものではない。だから、臨終になると今まで自分だと思っていた自分がすべて崩れ去る。私たちは価値のあるものを手に入れて、これが自分だと思って生きてきた。それが臨終ですべて崩れ去る。つまり、人生無意味だったと知らされる。我の為に生きている人生は無意味だったで終わる。

でも、私たちは我が崩れ去ると思ってないから、死んでも我だけは残ると思っているから、自分の人生に疑問を持つことなく、当たり前のように毎日を過ごしている。

仏教とは、そんな私たちに人生の最後に我が崩れ去る悲劇を教える。自分の人生が根本から否定される時が来ることを教える。

この真実を知るからこそ、私たちは我ではない、臨終の後も続く自分とは何かを知りたいと思うようになる。

我は自分ではない。我の為に生きる人生は無意味だと知らされるからこそ、本当の自分とは何か。それを人生をかけてまでも見つけなければならないと思うようになるのです。

仏教は死を見つめよと教える。それはみんな我が自分だと思って生きているからであり、この我が崩れる未来があることを知らないから。だから、このまま死んでゆけると思っている。

でも、この私だと思っているのは我。臨終に崩れるもの。そして、我の為に生きてきた人生は、死によって、すべて否定される。

本当の自分を知らなければ、臨終にみんな悲劇が待っているだけなのである。
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