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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
我とは
我とは、価値のあるものを身につければ、自分は価値のある人間になったように思う心。ブランド品を身につければ、それだけで自分は価値のある人間になったかのように思う。

私たちは価値のあるものを手に入れたならば、他人から大事にされると思っている。価値のあるものは、それだけで、人は大事するものだと思っている。

ここで価値とは、物質的な物だけではない。お金、財産、地位、名誉なども価値のあるもの。また、能力なども価値。

そういうものを手に入れたら、他人は自分のことを価値のある人間と見て大事にしてくれると思っている。 

また、上辺だけでも価値のある人間かのように格好つける。自分は何も変わらなくても、他人から良く見られたならば、自分は価値のある人間になれると思っている。だから、他人が見ている前ではいい人を演じるし、他人の見ている所ではやる。

親鸞聖人はこれを“外に賢善精進の相を現じて”と言われた。
外とは、他人が見ている所。他人が見ている所では、賢善精進の姿を現す。賢善精進とは、賢く見せようとすること。善い人を演じること。そして、あの人は頑張っているなあ、いつ寝ているんだろうと思ってもらえるように頑張ること。すべては他人から良く見られる為。これを我という。

私たちは他人からどう見られるかを気にする。他人から良く見られただけで、自分は善人になったかのように思う。また、どんなに努力をしていても、まわりの人から悪人と見られたならば、今までの自分の努力は無駄のように感じる。それは、その人の努力そのものが、他人から良く見られる為の努力だから。つまり、他人の目を気にする心でやっている。だから、自分の努力とは関係なく、他人の評価によって善人にもなれば、悪人にもなる。
この他人からどう見られるかによって自分が変わるものが我。自分のことを自分はどう思うかということが、他人からどう自分が見られているかによって決まると思っている。このようにしてできたセルフイメージを我というのです。

この我とは、多くの場合、小さい時に親が自分のことをどう扱ったかによって、最初の我ができる。この時、親が子供が思い通りにならない時に否定的に扱った場合、子供は自分に対してマイナスのイメージが形成される。これがマイナスの我。このマイナスの我とは、本当の自分であり、そのマイナスの我が嫌いで、このマイナスの我が見えると自分のことを責めて否定する。その為、マイナスの我が露わになると、苦しい。だから、見たくないし、自分に価値を身につけて、自信をつけて、理想的な自分こそ自分なんだと思おうとする。

例えば、私は勉強ができるとか、スポーツができるとか、クラスの人気者とか、いい大学に入ったかとか、年収はいくらだとか、出世をしたり、地位や名誉を手に入れたり、高級ブランドを身につけたり、美術品を求めたり、そんな価値のあるものを手に入れたら、自分は価値のある人間になれると思っている。そうやって、価値のあるものを手に入れて、自分に自信をつけることによって作られた我をプラスの我と言います。

しかし、どんなに価値のあるものを手に入れて自分に自信をつけたとしても、根底にあるマイナスの我は変わらない。

だから、少しでも自信のある所を否定されてプラスの我が崩れると、その底にあるマイナスの我が見えてしまう。その為、他人の注意や失敗を素直に認めることができない。もし、無理やり認めようとしたら、自分が殺されるような苦しみが生まれる。だから、多くの人は注意されると、口ではすみませんと謝るが、心では反発するので、行動が根本的には変わらない。

このマイナスの我を強く持っている人ほど、プラスの我に執着し、自分を肯定的に見てくれる人を好きだと思う。この好きは自分のことを好きになってくれたことが好きなだけで、相手のことが本当に好きだとは違う。

例えば、権力者などは、自分の意見に賛同してくれるイエスマンばかりをまわりに集める。その人たちはその権力者の喜ぶことばかりを言って真実を言わない。そして、真実を言う者が現れたならば、その人を煙たく思い、自分から遠ざける。

しかし、どんなに価値のあるものを手に入れて、自信をつけて、これが自分だと安心しても、それは本当の自分を隠す為の仮面。だから、仮面をどんなに価値によって飾り立てたとしても、臨終になると、この仮面は崩れ去り、ボロボロの素顔が見える。その為、こんな自分は見たくないと、自分の心をナイフで切り刻み、否定し、消し去ろうとして、苦しみもがく。

私たちは生きている時はこの仮面こそ自分であり、本当の素顔なんだと思って、この仮面がいつまでも変わらないと思っているが、臨終を目の前にすると、この仮面は脆くも崩れ去り、醜い素顔が露わになる。

その為、理想的な自分のイメージに執着している人ほど、このプラスの我が崩れた時には苦しまなければならない。だから、親鸞聖人は外に賢善精進の相を現ずることを得ざれと言われ、外から見える自分にとらわれるのではなく、本当の自分を素直に出して生きてゆきなさいと教えられたのです。

私たちは本当の自分に対して否定的なイメージを持って、この自分を隠し、理想的な自分を演じている。でも、どんなに理想的な自分を演じたとしても、自分が本当の自分を否定していたら、心はいつも不安を抱え、幸せになることはできない。幸せとは、理想の自分を演じて、それを他人から認めてもらうことではなく、本当の自分を自分自身が許してあげること。

私たちは自分を否定しているように、他人も否定している。だから、自分を許す為には、自分の目から見て、相手が間違ったことをしていたとしても、その人のことを否定的に見るのではなく、この人もまた人間なんだと認めてあげる。

いつも理想の通り動けるものが人間ではない。失敗もすれば、怒りや醜い感情も吹き上がるものが人間。そんなその人のマイナスの面が見えたとしても、その人のことを否定することなく、この人もまた人間なんだなと許してあげる。そうすれば、自分に対しても、ダメな所があっても、人間だものと許すことができる。

悪は責めるものではなく、許すもの。許されるからこそ、理想的な我に執着する心から離れ、本当の自分で生きてゆくことができる。

それが不安から離れ安心することなのです。

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