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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
誓願不思議を疑いて
誓願不思議を疑いて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 虚しく過ぐとぞ説きたもう

まず始めの誓願不思議というのは、誓願とは阿弥陀仏の誓願のこと。阿弥陀仏の誓願とは、どんな人も見捨てることなく、必ず救うという誓い。

では、阿弥陀仏に救われるとはどういうことか?

私たちはみんな価値のあるものは大事にされ、価値のないものは見捨てられると思っている。だから、この世にはお金や財産など価値のあるものがあり、それを手に入れたら、自分は価値のある人間になれると思って、必死になって価値のあるものをかき集めている。

みんなそれぞれ何に価値を置いているかは違えど、何かに価値を起き、それを手に入れることによって、そんな価値のあるものが自分だと思って、自分=手に入れた価値だと思って安心している。

例えば、歳を取った人は生きた証が欲しいといい、自分が確かにここに存在したことを証明しようとして、家を建てたり、美術品や絵画を求めたり、お金や財産を残そうとする。

みんな自分がこの世からいなくなると思っているからこそ、自分は確かにここに存在したんだという確かな証が欲しくなる。

それはそういうものを手に入れることによって、自分は価値のある人間なんだということを感じたいのだと思います。

しかし、この世でどんなに価値のあるものを手に入れたとしても、シンデユク時には何一つ持ってゆくことはできない。全部置いて丸裸で死んでいかなければなりません。その時、何かに価値を置いて、これがあるから自分は価値のある人間なんだと自信を持っていた、そんなお金や財産や地位や名誉を頼りとしていた人ほど、それを失った時に、自分の存在を証明するものはなくなり、自分の人生は何だったのかと悲しみの涙を流し死んでゆかなければなりません。

この世でどんなに価値のあるものを手に入れたとしても、死んでゆくときには、すべての価値を失い、何もない自分になってゆく。

その時、私たちは私は価値があるから人から大事にされると思っているので、何一つ価値を失った自分はすべてのものから見捨てられるという不安や苦しみで心が包まれるのです。

私たちにとって見捨てられること以上に不安なことはありません。だから、私たちは生きている時には、何かに価値を置き、価値のあるものを手に入れることによって、自分は大丈夫なんだ。見捨てられることなんてないんだと安心しているのです。

しかし、どんなに生きているときに価値を手に入れて自分は価値のある人間なんだと思っても、死んでゆく時には何一つ持ってゆくことはできない。だからこそ、私たちの心の底からの願いはすべてを失った私でも見捨てないで欲しい。ただそれだけなんです。

でも、私たちは何もない自分のそばにいてくれる存在なんていないのだと疑って、価値のあるものを求めて自分のものにしようとし続けているのです。

そんな私たちに対して、すべてを失ったとしても、私だけは決して離れることなくそばにいてあげますと誓われたのが阿弥陀仏です。これが阿弥陀仏のそのまま救うという誓いです。このそのまま救うとは、価値なんてなくても、あなたのことを決して見捨てませんよ。たとえ死んだとしても、あなたのそばから離れませんよと一緒に死後もついてきて下されるのが阿弥陀仏なのです。

それは価値がなければダメなんだと思っている人ほど、何もない自分を見捨てない存在がいるなんて信じられない。たとえ阿弥陀仏がおられると聞いても、それでも必死になって価値を身につけ、こんなに価値を手に入れたから救って下されるだろうと思うものが私たちです。

たとえお金や財産地位や名誉は死んだら置いてゆかなければならないだろうと思っても、生きている時にこんなに善に励んだから、こんなに念仏を唱えたからと、やった善、唱えた念仏をあて力にして、これだけやったから、阿弥陀様は見捨てないだろうと思うものが私たちです。

だから、死んでゆく時に、やった善、唱えた念仏も何の支えにもならなかったと価値を失ったとしても、それでも見捨てられることが怖くて、何か価値のあるものはないか、何かあて力になるものはないかと価値を求め続けてしまうのです。
これが誓願不思議を疑いてということです。

この誓願不思議を疑っている人は、何か自分を支えてくれるものを求めずにはおれない。こんなに頑張ったのだから、自分は価値のある人間だから、阿弥陀様は見捨てないであろうと思いたい。

そんな私たちが最後にすがるものが念仏なのです。死によって何もかも失ったとしても、こんなにも念仏を唱えたから阿弥陀様は私のことを救って下されるだろうと信じたいのです。

そんな人がゆく往生が宮殿なのです。この宮殿の中に生まれた人は、阿弥陀仏がこんなにも念仏を唱えたからと念仏にすがって、だから、私のことを見捨てないで欲しいとすがっているからこそ、阿弥陀様が母親がお腹の中の赤ちゃんを思うように、お腹の中で、大事に大事に、あなてのことを見捨てませんからねと守り育てて下されるのです。

この時、往生した人は阿弥陀様のお腹の中にいながら、見捨てられることへの不安から心を閉ざし、阿弥陀仏がそばにいることも気づきません。阿弥陀仏がおられながら、阿弥陀仏に気付かず、阿弥陀仏が真実の教えを説いているのです。見捨てられるのが怖くて心を閉ざしているから聞けない。

そんな状態で阿弥陀仏に守られながら、五百年という長い間、見捨てられるのではないかという不安を抱えながら虚しく過ごさなくてはならないのが、誓願不思議を疑う人が往く往生なのです。
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