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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
衆生有碍のさとりにて
衆生有碍のさとりにて 無碍の仏智をうたがえば 曾婆羅頻陀羅地獄にて  多劫衆苦にしずむなり

有碍のさとりとは、まだ信心決定してないのに、自分は信心決定したんだと勝手に自分は悟ったのだと思い込むこと。どうして悟ってもないのに、悟ったと思い込むのかと言えば、自分が悟った所に立てば、相手に対して、何でこんなこともできないのか、そんなことで信心決定できるかと責めることができるから。世の中には、人工信心を与えて、それが信心決定したんだというものがある。その人たちの多くのは、相手の悪を責めることはいいことだと思って、相手の悪を責める。責められたものは、苦しいから、自分は正しいという所に立つ。すると、今まで苦しかった心は一変して心が楽になる。ああ、これが悟りなんだと思って、悟った所に立ってしまう。そうすると、自分は悟ったのだと思って、まだ悟ってない人を責めずにはおれない。責めることで、自分は正しい所に立つので、ますます元気になる。おお、これが説法かと思ってしまう。説法とは相手の悪を責めることだと思って、大上段に立って責めてしまう。そんな出来てない人を責めることは正しいのだと思っている人を有碍の悟りと言います。この悟りを開くと、自分の考えが正しいと思い込むようになり、自分の考えに合わない相手を許すことはできない。それはどんな相手も許すと誓われた阿弥陀仏とは真逆な心。だから、自分の考えに合わない人を許すことができず、否定してしまう。否定して、相手の間違いを正すことが良いことなんだと思ってしまう。とかく私たちは自分は正しいという所に立とうとする。そして、自分の考えに合わない人を認めることができず、その人を否定してしまう。それが正しいことなんだと思ってガンガンやるのが有碍の悟り。しかし、真実から言えば、相手は自分。相手を否定すればするほど、後でその報いで激しい苦しみになって返ってくる。しかも、自分は正しいという所に立ってやるほど、苦しみは激しくなる。苦しみは他人によって生み出されるものじゃない。自分が生み出すもの。真実が分からない人ほど、正しい所に立ちたがる。それは正しい所に立てば、間違ったものを否定できるからだ。でも、そうやって正しい所に立って間違ったものを否定すればするほど、それが報いになって返ってきた時は、信じられないほどの苦しみとなる。それが曾婆羅頻陀羅地獄。これは無間地獄さえもこんな楽な世界はないと思える世界。こんな地獄に自ら飛び込んでゆくのが、有碍の悟りなのです。
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