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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
悪を善へと変えるには
観無量寿経に、定善が教えられている。定善とは、心を静めて仏を念じて善を励むこと。最初の日想観から始まり、日想観で仏を寝ても覚めても心で念じながら、善に励むのが定善。

日想観とは、西に沈む夕日は沈むまで眺めると、夕日の残像が目に焼き付き、目を開いても、目を閉じても消えることがない。それと同じように、仏様のことをいつも念じ続け、寝ても覚めても、心から消えることがないのが日想観であり、定善すべてを通して、実践しなければならないこと。

仏を念ずるとは、心に太陽を持つということ。太陽がいつも私を照らすように、仏とは、何が仏教で善なのかを照らし続ける。いつもこれが仏教で正しいことなんだと教えてくれる。それに対して、自分ができなかった時、仏を念ずることがないと、自分から起きた悪を、これはこういう理由だから悪くないのだと正当化してしまう。何が正しいか、何が間違っているかの物差しが、自分の心に合わせて、自分の都合の良いように変えてしまう。そして、自分のやることは全部良いことなんだとしてしまう。

だから、いつも自分のやることは正しいという所に立っているから、間違っている人に対して、無慈悲に否定できる。悪は否定されて当然なんだと思って責める。

悪を責めるから、己の悪は認められなくなる。そして、自分の都合の良いように、善悪の物差しを変えてゆく。相手の悪には、厳しく責めるのに、自分が同じことをしても、これはこういう理由があるから悪くないと正当化する。自分の中に変わらない正義がない。それが太陽がないということ。

日想観とは、心に太陽ができる。いつも変わらない物差しができる。その物差しが仏様。こんな時、仏様ならどうされるか、それが物差し。それに照らし合わせて、自分を見る。もちろん、私たちは仏様のようにはできないから、そこで見えるものは悪ばかり。悪を責めていた人ほど、自分の悪が見えると、そこから逃げようと欲に走ったり、誰か悪者を見つけて、その人に怒りをぶつけることで、正しい所に立とうとする。

この時、見えた己の悪を否定せず、受け入れることが次の水想観。水想観とは、お椀の中に、五円玉を入れて、それをまっすぐに見ること。この時、水面が乱れていたら、五円玉は歪んで見える。これと同じように、私たちは自分の心を歪めて、自分のやることは全部正しいことに変えてしまう。自分の心に映る悪の姿。それを歪めることなく、ありのままに受け止めること。それには、己の悪が見えても、心が乱れることなく、穏やかでいなければならない。その為には、悪が見えても責めないこと。それは他人の悪が見えても責めないことから始める。他人の悪を悪と見た上で、それを責めるのではなく、悪を直す所まで、とことん付き合う。そうすれば、自分の悪が見えた時に否定されたように感じてはねつけたり、正当化することなく、悪を悪だと認めて、そのまま受け入れることができる。このように悪を悪だと認めて受け入れること。それを実践してゆくのが水想観。そして、大地のように心が揺らぐことなく、受け入れることができるようになったのが次の地想観。

ここまで来て、初めて自分の悪を正し、徳を積んでゆくことができる。私たちは己の悪を見たとき、この悪を正して無くしたいと思って、自分の悪を責めてしまうが、本当に悪を無くしたいと思ったら、まずやることは、己の悪を否定することなく、受け入れること。悪を否定することなく、悪を悪だと認めて、自分にはこんな悪があるのだと受け入れて、それでも、心が乱れることが無くなって初めて、じゃあ、その悪を正して、善に変えてゆく為のタネを蒔くことができる。

悪は責めても無くならない。無くしたいと思うからこそ、否定することなく、受け入れることができなければ、悪を善へと変えることもできないのである。
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