幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
執着は苦しみを生み出す

私たちは無常が無常だと認められない為に苦しむ。

変わってしまったものに対して、変わってしまったということが認められず、元に戻って欲しいと思って期待しては、元に戻らないという現実を突きつけられては苦しむ。

この現実を受け入れられない心が執着なんだなと思います。

この執着さえなかったら、どんなに都合の悪い現実でさえも受け入れて、今自分にできることをコツコツとやってゆけるのに、執着がある為に過去にすがって、あの時は良かったと思って、思い出に生きるようになる。

思い出にすがっても、そこには幸せはない。

大事なことは現実を受け入れて、今自分にできることを少しでもやってゆくこと。

頭では分かっていても、過去に執着している人は、変わってしまった現実を認められず、今という現実に向き合うことができない。

執着は無常によって苦しみを生み出す。

仏教ではだから執着から離れないといけないと教えられるのですね。


自分のものになるものは何一つない

私たちは一度自分のものにしたものを整理して、自分のものじゃなくなるのが怖い。

それによって、すべては借り物の人生だと分かってしまうから。

人生とは所詮借り物。

何かを自分のものにしたとしても、永遠に自分のものになるものは何一つない。

でも、それが分かりたくなくて、自分の我をつけたものだけは永遠に変わらないと思っている。

でも、その思い込みを打ち砕くのが無常。無常は自分の世界の真実を見せる。

それはこの世の中何か一つでも自分のものになるものはないという真実。

私たちはこの真実を否定して、これだけは永遠に変わらないと思って我をつけている。

そこから執着が生まれ、執着しているものを失うという苦しみが生まれる。

苦しみは無常を否定している所から生まれる。

私たちは無常を認めていないから、無常の世の中で自分の信じているものだけは裏切らないと思ってすがっている。

でも、無常は必ずやってくる。私たちは無常を否定しているので、自分にも世界にも変わらないものだと思って我をつけて、安心して生きているが、自分も世界も刻一刻と変わっている。

だから、どんなに無常を否定しても、必ずやってくる。

その時、変化してしまったものを見て、まだ変わってしまったということが認められず、変わらなかった昔に執着しているから、私たちは苦しむ。

仏教は執着から離れてゆく教え。それはこの世の中で何か一つでも自分のものになるものはないという真理を受け入れてゆくことで離れることができる。

この世の真実を知ることは苦しいこと。

でも、それを受け入れなければ、いつまでも変わってしまったものを変わってしまったと受け入れることができず苦しまなければならない。

執着は苦しみしか生み出さないのですね。


煩悩と欲は違う

世の中では、煩悩と言ったら、欲のことだと思っている。欲が煩悩だから、寝ることも食べることも煩悩。私たちは食べることも寝ることからも離れることができないから、人間とは煩悩具足なんだと教えられる。

これが当たり前のように仏教の専門家の僧が教える。

たぶん、本人も当たり前のように欲を起こしながら、それを煩悩だと言いながら、欲から離れようとしない。それよりも、他人前では悪だと言いながら、時間があったら欲を満たしている。

つまり、僧本人さえも欲が悪いとは思っていない。

仏教をしっかりと学んだならば分かることだが、欲と煩悩は違う。煩悩とは欲を貪ること。どこまで満たしても満足することなく、もっともっとと求めずにはおれないのが煩悩。

例えば、必要な栄養を摂る為に食事を取ることは煩悩ではないが、失恋と現実を誤魔化す為に食べるのは煩悩。この場合、食べるのは、必要な栄養を摂る為ではなくで、現実逃避の為。

だから、食べても食べても、これで満足したということはなく、食べていないと悲しみがこみ上げてくるので、失恋という現実を誤魔化す為に食べる。

また、現実に嫌なことがあったときに、部屋に閉じこもってゲームに逃げるのも煩悩。

つまり、煩悩とは現実と向き合うことなく、逃げること。だから、どれだけ逃げても問題は解決しないから、逃げれば逃げるほど、問題は深刻になり苦しみ続けなければならない。

だから、煩悩は悪であり、離れなければならない。

これと欲は違う。でも、世の中では、煩悩と言えば、欲のことだと思っている。だから、仏法を聞く人がどんどんと減ってしまうのだなと思います。悲しい限りです。


見捨てない

どんなに嫌な相手、都合の悪い相手であっても、その人を見捨てないのが弥陀の救い。

阿弥陀仏はどんな極悪人でも見捨てず救うと誓われているからこそ、その弥陀の救いを信じる私もどんなに嫌な相手であっても、その人を切らない。

世の中、嫌な人があったら、簡単に切って楽になろうとする風潮があるが、仏教ではどんなに嫌な相手であっても、自分からその人を切ることはしない。

それは他人を見捨てることによって、自分も相手にとって都合が悪くなったら見捨てられるという不安が生み出され、それによって苦しまなくてはならないから。

だから、自分の為に相手も見捨てない。でも、見捨てないことは自分の心を楽にするだけでない。相手の心も動かす。

たとえ相手が鉛のように他人の意見に耳を貸さない人であっても、その人を見捨てず、大事にしてあげる。

そうすることで、時間はかかるけど、相手の心が動く。他人は冷たく責めることにやって変わるものではなく、温かく支えることによって変わってゆくのですね。


他人の死に触れる

人は必ず死ぬ。死というのは厳粛なもの。人は、他人の死に触れた時にこの人の人生は何だったのだろうかと考えずにはおれない。

金、金、金と追い求めた人も死んでゆく時には、何一つ持ってゆくことはできない。

どんなに地位や名誉を手に入れたとしても、死んで残るのはひとつまみの白骨。

そう考えた時に、人生とは何だろうと考えずにはおれない。

人は、裸で生まれて、裸で死んでゆく。一生かけてかき集めたものすべて置いて、何一つ持ってゆくことはできない。

持ってゆけるのは、己の業のみ。

人間とは、生きている時は、目に見える物質的な幸せのみを追いかけて求めているが、そうやって求めている間に自分の心からどんな思いを起こしているか目を向けることはない。

多くの場合、何かに執着して求めている間に起こしている感情は醜い罪悪ばかり、それは生きている時は自覚なく山のように造っていても、いざ、死を目の前にすると、その罪悪の報いが大きな不安となって、私の心を真っ暗にする。

その時、自分の人生何だったのかと悔やんでも遅い。

他人の死は、そんな誰にも待っている人生の最後を考えされるご縁。

この人は、死んでいったけど、どこへ逝ってしまったのか。

そんな厳粛な死を考えずにはおれない。それが他人の死に触れることなんだと思いました。




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