FC2ブログ
幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
心の掃除
何か問題があると、みんな自分は何も変わらず相手に変わって欲しいと思う。
そして、こんなこともできていないじゃないかと相手を責める。それで責めて、相手が思い通りに動いてくれないと、なんでこんなことをされるのが嫌なのに、あなたはするのと更に責める。 

まるで責めたら相手は変わる筈だとカンカンに信じている。

たとえば、部屋を汚されるのが嫌だ、綺麗にしておきなさいと相手を責める。でも、そんなに汚いのが嫌ならば、自分が片付ければいいのに、自分では片付けようとはせずに、汚したのは相手だから、相手が片付けるべきだと相手を責める。
そんなに責めたら、責められた相手は責められるのが嫌だからいなくなる。
結局、責めても孤独になるだけ。

仏教から言ったならば、嫌だと感じているのは自分だから、相手に片付けさせようとはせずに、自分が片付ける。誰が汚したかは関係ない。誰が嫌だと感じているか。
嫌だと感じているのは自分だから、自分が片付ける。そうやって片付けると不満が起きてくる。この不満が起きてくるのは、自分の心が穢れているから、その溜まっていた穢れが片付けることで出てくる。

この穢れは我慢するのではなく、誰かに話す。話して認めてもらうことで、心から消えてゆく。だから、片付けるのは、心の掃除。せっかく心から穢れが吹き上がってきたのだから、それを聞いてもらわなければ、心の掃除をした意味がない。吹き上がった穢れはこんな感情を吹き上がらせる相手が悪いと思わずに聞いてもらって楽になった方がいいですね。
勝他の報いの苦しみ
人は煩悩で苦しんでいる。ここで苦しむとは何か。苦しむとは、心が穏やかになることができないこと。煩悩とは、勝他、名聞、利養。勝他とは、自分よりも勝っている人がいる時にその人の存在を認めることができず否定すること。

人は自分が一番になることはいいが、自分よりも認められる人がいると、その人の存在を快くは思えない。
なぜなら、自分よりも勝っている人がいると、その人のことばかり注目されて、自分の存在を見てもらえないから。それは自分がここに存在しているのに、存在していないように感じて苦しい。だから、相手を否定すれば、自分は苦しむことはないと思って否定してしまう。だから、否定する為に相手の良いところは認めず、悪いところばかり見て、この人はこんなに悪いところがあるのに、どうして自分よりも高い地位にいるのだと否定する。そして、自分がこのように思うだけでなく、まわりの人も自分と同じように上になった人を否定する。

このような世界では、下になると存在を見てもらえず軽く扱われるようになり、上になったらなったで、まわりの人が自分を引きずり下ろすようなことばかり考えているような感じがして喜べない。上になっても下になっても苦しむ。それが勝他の報いの苦しみなのです。
相手を必要とする
人は他人から必要とされてこそ、頑張ろうという気持ちが起きる。
だから、誰かに必要とされること以上に幸せなことはない。

それと同じように、自分も他人のことを必要とする。誰かに必要としてもらいたいからこそ、自分も素直になって他人のことを必要とする。
幸せになりたければ、自分が他人の為に如何に頑張るかよりも、如何に自分が他人のことを必要とするか。自分の為にも相手にいて欲しいと思うか。それが大切だと思います。それがたとえ相手にとって重荷になったとしても、相手も必要とされることは嬉しいこと。
だから、素直に相手のことを必要としてゆく。

それは相手に執着して縛ることではない。縛るのは、自分の思い通りにならない時に思い通りにしようとして、自分の思いを通すから、通された人は重荷に感じて苦しくなる。

必要とするのは、ただ相手の存在が自分にとって必要だと伝えてゆくだけ。気持ちを伝えるだけ。

その上で相手が自分に対してしてくれることを快く受け取ってゆく。相手を必要としてゆくと言うのは、相手と一緒にいる時間を喜びとする。

自分がまず相手と一緒にいたいと思うこと。

それが大事。

そうすることによって、相手は私と一緒にいることを喜びと感じてくれるようになる。世の中は自分が他人の役に立とうとして頑張る人はいるが、本当に自分が相手のことを必要とする人がいない。一見、必要としているように見えても思い通りにならないと機嫌が悪くなって相手を縛っている人ばかり。如何に相手を必要とすることが難しいか知らされます。
辺地懈慢
親鸞聖人は阿弥陀仏の十九願の人は、辺地懈慢に往生すると言われる。
では、この懈慢とは何か?
懈慢とは、どこかにそんな世界があって、そこに行くのではなくて、私の心が生み出す世界。私の心が求めているものが懈慢だから、私の心が懈慢という世界を生み出す。

懈慢とは、懈怠と驕慢。懈怠とは、楽がしたいという心。私たちが求めているものは懈怠。お金持ちになりたいと思うのも、お金持ちになったら、働かなくて済むから、楽が出来るから金持ちになりたい。いつも楽になりたいと思っているから、家に帰って、靴が閉まってないと腹が立つ。それくらいやっておきなさいと思っている。靴をしまうことぐらい、大変じゃないのだから、それくらいのことやってあげたらいあのに、他人のために動くのが嫌だし、楽がしたいから、しまってあげることはせずに他人が動いて当然だと思ってしまう。このように懈怠とは、他人のために動きたくないという心。他人のために動いても、そんなに大変じゃないのに、時間もあまりかからないのに、喜んで他人のために動いてあげることができない。できないどころか、それくらい気づいて自ら動かんのかとさえ思っている。相手が気づかないから、自分が気づいて、動かないといけない。まわりの人たちは気づかないから、楽をしてる。私は気づくから動かないといけない。損をしてると思う心。これが懈怠。だから、十九願の人は、一生懸命善に励む。それは往生したいから、その人にとって、善は往生する為の手段。だから、善は往生するまでやらなければならないが、往生したらやらなくていいと思っている。楽ができると思っている。そんな心で善に励んでいるから、その人の行く世界は懈慢になる。

次に懈慢の慢とは、驕慢の慢。私たちは何の為に頑張っているのかと言えば、優越感を味わいたいから、阿弥陀仏に救われて往生したならば、できなかった人たちを見下すことができるから。だから、頑張る。私たちの行動の原動力は優越感を味わいたいから。私たちは色々なことで他人を差別する。どちらが上か、どちらが下かにこだわる。そして、上だと喜び、下を見下し、下になると腹を立てて、今度は上になろうとして、頑張る。人間というのは、上か、下か、そんなことばかりが問題になる。他人から見下されないように必死に頑張り、自分をよく見せようとする。本当の自分はそうでないのに、他人前だけは自分のイメージが崩れないように格好つけようとする。それのどこがいけないんだ。少しでも自分のことをよく見てもらいたいと思う人が行く世界が懈慢。逆に懈慢でなければ喜べない。ここまで頑張ったら、完成だよ。頑張らなくてもいいんだよと終わりがなければ、頑張れない。いつまでも頑張り続ける世界だとしたら、何の為に頑張るのか分からない。頑張ることは苦しむことだと思っている。だから、ここで終わりとなる世界を私たちは求めている。それが懈慢という世界なのです。
たった一言が違う
この世界には自分だけじゃなくて、色々な人が住んでいる。だからこそ、自分のことだけ考えるのではなくて、他人のことも考えてあげなければならない。

私たちは不思議なものでたった一言で心が安らぐこともあれば、たった一言で機嫌が悪くなることもある。
どうせならこの口で相手が喜ぶような一言が言えるようになりたい。
常に相手の心に目を向けてゆき、相手が喜んでもらえるように心がける。
自分にはそういう所が欠けているからこそ、心がけて相手が喜ぶようなことを言ってゆきたい。
そうすることで、相手から必要とされるようになる。

必要とされる人間とは、相手を喜ばせるようなことを常に考えているような人だと思います。

たった一言の力。その力で相手が喜ぶように心がけて生きてゆきたいなと思いました。


プロフィール

上田祥広

Author:上田祥広
管理サイト
浄土真宗講義



最近の記事



ブログランキング

FC2ブログランキング



最近のコメント



カテゴリー



FC2カウンター



ネットサーフィンの鉄人

ネットサーフィンの鉄人



ブログ全記事表示

全ての記事を表示する



RSSリンク



てくてく…



お友達のブログ

このブログをリンクに追加する



グリムス