幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
逆で返す
人間とは愛欲の塊だなと感じる。人と一緒にいても、相手が自分の存在を無視して、まるで自分がいないように過ごされると、別に相手から何かされた訳でもないのに、悲しくなって、この人と一緒にいたくないと思ってしまう。
相手からしてみたら、自分の好きなように振る舞っただけなのかも知れないが、一緒にいながら、自分の存在を認識してもらえないほどの悲しいことはない。
でも、私のことを悲しい思いにさせる相手は、その人も小さい時に悲しい思いを受けてきた人。私たちは小さい時に自分が受けてきたことを他人に対しても意識せずにしてしまう。
だから、悲しい思いになる人とは、悲しい思いを受けてきた人。そんな人にこんなに悲しい思いになるから、もう知らないと相手を見捨てるのではなく、この人は悲しい思いを受けてきたから、こうなったんだと思って、悲しい思いにさせないようにしてあげる。自分が悲しい思いになるからこそ、この人には悲しい思いをさせないようにする。自分が受けたものをそのまま返すのではなく、逆で返す。それが幸せになる為の種まきなんだと思いました。
必要としてゆく
歳を取ると、自分の存在を必要とされていないことを感じて寂しくなることがある。
確かに若いときは、色々な場面で他人から必要とされるし、他人の役に立つことで、自分はここにいてもいいんだと思って頑張ることができる。
でも、そんな時こそ、自分が他人のことを必要とすることが大事だと思います。
自分も他人から必要されたいからこそ、みんなも必要とされたいと思っている。だから、みんなの心を満たしてあげたいと思って、自分から声をかけて必要としてゆく。
人は一人では生きてゆけない。だから、自分が何気なく生活している色々な場面で他人が助けてくれることがある。
そのすべてに対して、当たり前だと流すのではなく、ありがとうと声をかけてゆく。今日も自分のことを助けてくれるように、これからも助けて欲しい、自分のそばにいて欲しいと思って必要としてゆく。
必要されない人間はいらない存在ではない。必要とされる人にはいつも必要としてゆく人がいることを理解して、自分から声をかけてゆく。そうやって、必要としてゆくことで、まわりの人も自分の存在を必要としてくれるようになる。何もできなくても、自分が存在するだけで、他人を幸せにしてゆくこともできるのですね。
布施と三輪空の関係
仏法で布施をした時、私は誰々に何々をしてやったんだという気持ちを捨てなければならないと教えられる。
でも、人間とは、自己愛の塊。他人のために頑張った時ほど、自分はあなたの為にこんなにも頑張ったんだということを認めてもらいたいもの。この気持ちはどうしたらいいのか?
例えば、挨拶をした時に相手から挨拶が返って来ないと、悲しい気持ちになる。でも、挨拶は仏教から言ったら布施だから、挨拶は返してもらう為にするものではなく、相手に喜んでもらいたいからする。
だから、仏教の教えから言ったならば、挨拶が返って来なくても、するものが挨拶。その大前提で挨拶をしてゆくことが大事。
その上で、せっかく挨拶しているのに返してくれないと、寂しく思うものが人間。だから、この心を否定して挨拶をしなさいというのではなく、この感情を大事にしてゆく。そして、人県なんだから、自分が返して欲しいと思うように相手も挨拶を返して欲しいものだと思うようにする。仏教とは、自分が望んでいるものをまず相手に与えてゆく教え。だから、挨拶を返して欲しいと思ったならば、まず自分が挨拶を返してゆく。その時に大事なのは、自分が挨拶を返してもらえないと寂しいと感じるように、相手も寂しいのだと思って言葉をかけてゆく。自分も寂しいように、まず相手が寂しい思いをさせないように心がけてゆく。そうすることで、自分も寂しいと思わなくなる。寂しい時にまず相手から声をかけてもらいたいと思うから、声をかけてもらえない時に寂しい。寂しいからこそ、自分から声をかけてゆく。そうすることで、自分の寂しさも感じなくなる。
私たちは逆、挨拶を返してもらえないと、寂しいから、この寂しい思いを相手に与えてやろうとやり返す。そうすると、自分も寂しいように相手も寂しくなって、人間関係が悪くなる。
返事を返してもらえないと寂しいからこそ、まず自分が相手の寂しさを解消してゆく。それが大事ですね。
仏法の修行とは、
仏法で修行とは何か?
滝に打たれることが修行か。苦しい環境に自ら飛び込むことが修行か。
私は仏法の修行とは、苦しみに耐えることではないと思います。
仏法の修行とは、自分の感情を大事にしてゆくこと。でも、感情を大事にすることと楽をすることとは違うし、欲を満たすことでもない。好きなことさえしていればいいという訳ではない。
感情を大事にする為には、まず自分の心が見えていなければならない。だからこそ、欲に塗れた生活をして、心が見えなくなったり、また、他人に気を遣って自分に嘘をついて心が見えなくならないように、生活習慣を正すことが大事だし、自分の心に正直になることが大事。
そして、自分の心が見えたならば、その心を誰かに話して受け止めてもらうこと。
私たちは誰しも自分のことを認めてもらいたいという心がある。だから、他人のために頑張った時には、こんなに頑張ったんだと正直に話して、自分の努力を認めてもらう。
また、相手の言動によって自分の心が傷ついた時は、その心を放っておくことはせず、こんなに傷ついたんだということを話して受け止めてもらう。
自分の心に優しく守ってあげることが修行。だからと言って、自分のことを優先すればいいという訳ではない。それでは、自分の心が見えなくなる。自分の心が見えなかったならば、何を大事にすればいいか分からず、ただ楽を求めるようになる。楽を求めることと心を大事にすることは違う。心を大事にするとは、自分の心をいつも見て放っておかないようにすること。欲に流れている人は、自分の心が見えてない。心を大事にするからこそ、欲に流れないように、いつも心が見えるようにしておく。
心が見えていてこそ、心を大事にすることができる。この心を大事にすることこそ、仏法の修行なのです。
感情を乱した時は自分から謝る
子育てとは、単に子供の食事を用意して、お世話していたらいいのではない。
子供がここにいてもいいんだと思えるように心を支えてあげなければならない。
その為には、自分の感情に任せて、怒りを起こしてしまった時には、謝ることが大事。
謝ることで、あなたは悪くないということを教えてあげる。

私たちは自分を悪者にしたくないから、他人を悪者にして責める。感情を乱したならば、あなたがこんなことをするから腹が立ったじゃないかと相手を責める。

でも、子供の感情を守りたいと思ったならば、どんなに相手が悪くても感情を乱した時は、自分が悪かったと思う。そして、謝ることが大事。

子供は親が感情を乱しているだけで、自分が悪かったと思うもの。そして、自分の存在を他人に迷惑をかけるいらない存在だと感じるようになる。

自分は迷惑な存在だと感じるから、迷惑をかけないように気を遣う。自分を迷惑だと感じている子供ほど、迷惑をかけないように親に対しても気を遣う。
親に気を遣う聞き分けの良い子はいい子のように見えるが、ただ自分の存在を迷惑だと感じているだけ。
このような子はこの世界の人は、気を遣わなければ迷惑だと思って責めてくるものだと感じている。

自分は迷惑な存在だと感じて生きている人はいつもまわりに気を遣うから、心から安心することはない。結果、苦しみながら生きてゆかなければならない。
子供に幸せになってもらいたいならば、自分はここにいてもいいんだと思えるように育てなければならない。
その為にも、子供が自分が悪かったと思わないように謝っていきたいですね。


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