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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
他人のせいにするから耐え難い苦痛となる。
人から無視されることは寂しいこと。でも、どんなに寂しさを感じていたとしても、それが障りになる人と障りにならない人がいる。
障りになるとは、単に寂しいと感じるだけでなく、それが耐えられない苦しみに思えて、寂しくさせた相手を責めずにはおれなくなること。
このような人は、あの人がこんなことさえしなければ、私はこんな寂しい気持ちにはならなかったと他人のせいにしている。
苦しみとは、他人のせいで苦しんでいると思った時、それは耐えられない苦痛に変わる。
それは自分が苦しんでいるのは他人のせいなのに、その人が私の苦しみを解決してくれる為に何もしてくれないから。だから、他人を責めて、その人に何とかしてもらおうとしてしまう。
でも、他人を責めたって、その相手が私の苦しみを何とかしてくれる訳ではない。
だから、他人のせいにして責めれば責めるほど、自分は悪くないのに苦しまなければならない現実が認められず、それは耐え難い苦痛となる。
苦しみは誰が悪いと他人のせいにしても仕方ない。それは他人のせいにしたからと言って、他人が動いてくれる訳ではないからだ。
だから、誰が悪いかなんて問題にするのではなく、自分が苦しんでいるのだから、自分のために自分が動く。
そうやって動いている人は、苦しみはやってきても、その苦しみが耐え難い苦痛になることはない。
同じ苦しみでも、それを他人のせいにするとしないとでは、感じ方は全然違う。
だから、どんなに苦しくても、他人のせいにすることはせず、その苦しみに対して対処してゆきたいですね。
寂しい時ほど自分から動く
寂しい人ほど、声をかけてもらえることを期待する。
でも、どんなに声をかけてもらって、その時は寂しさが紛れたとしても、相手の目が自分から離れた瞬間に寂しくなる。
結局、寂しいからと言って、声をかけてもらったとしても、寂しさは解消しない。

では、寂しい時はどうしたらいいか?
寂しい時は声をかけてもらうのではなく、自分から声をかけること。
呼べば呼ぶ呼ばねば呼ばぬ山彦ぞという歌もあるように、自分から声をかけてゆけば、声をかけてもらえるようになる。
声をかけてもらうことを期待している人は、寂しいという自分の感情に対して、他人が動いてくれて当然だと思っている。
そういう人は、寂しいという自分の感情に対して自分から動いていない。だから、どんなに相手が動いてくれたとしても、一回でも自分が望んだように動いてくれなければ、心が寂しくなる。
寂しいのは自分の感情だから、自分から動く。これが仏教。

自分から動くから、今がどんなに寂しくても、自分が動いて寂しさを解消できるから、寂しくない。
寂しい時こそ、自分の感情の為に自分から動く。
それが寂しさを解消する一番いい方法なのですね。
欲とは
欲とは何か?
欲とは、物事の本質が分からずに、ものを真実よりも大きく見たり、価値のあるものだと思って見て、それを手に入れたら幸せになれると思って追い求めることを言います。
だから、求めている時には、それを手に入れても、自分の望んだ幸せは得られないということが分からず、それさえ手に入れたら幸せになれると思って追い求めている姿が真実から言ったならば苦しんでいる姿なのです。
でも、私たちは真実を知らない為に、今追い求めているものが手に入ったら、幸せになれると思って追い求めている。それが悲劇なのです。
たとえば、お金がない人は、お金があったら、今よりも幸せになれると思いますし、地位や名誉がない人は、地位や名誉が手には入ったならば、幸せになれると思って求めます。
でも、それらのものを手に入れても、私の心は本質的には何も変わりません。
それは幸せとは何を手に入れるかによって決まるものではなく、自分の心からどんな思いが起きるかによって決まるからです。
仏教では、私の心を幸せにする思いを清らかな思いと言います。
だから、仏教では、幸せになりたければ、如何に自分の心を見つめ、その心を清らかにするか、それが大事であると教えられます。
でも、私たちの目は心を向いておらず、お金やものなどの外に向いています。そして、それらのものを欲によって追い求めている。
だから、幸せにはなれないのだと教えられるのです。
欲を満たすことばかり考えている人は、あれが手に入ったら、これをしたら幸せだと思っている人であって、実際、それらを手に入れても、幸せなのは、その瞬間だけ、すぐに幸せも色あせ、また、次の欲へと走ります。
そして、欲から欲への綱渡りで、歳を取り、死んでゆく。結局、苦労はしても、幸せは残っていない。いったい自分は何をしていたのかという後悔しか残りません。
この欲から離れるには、どんなものを手に入れたとしても、最後には無常がやってきて、失うことになるのだという真理を知らなければなりません。
そして、最後には失うということは、始めからなかったのと同じであるという真理が知らされたならば、欲を求めることからも離れ、心へと目が移るようになります。
この心を問題にする為にも、私たちは欲から離れなければならないのです。
布施ができる人になりたい
喜びは自分だけで味わうものではなく、自分のまわりの人にも一緒に味わうもの。
それが仏教でいう布施の精神。
たとえば、自分がアイスを食べたいと思ったならば、自分の分だけを買うのではなく、自分のまわりの人たちの分も買ってあげて、一緒に楽しむ。
そういうことに心がけると、今度は布施をした相手も布施をしてくれる。
それは単に物が手には入ったことが嬉しいのではなくて、相手が自分のことを考えてくれたことが嬉しい。
嬉しいから、今度は自分もまた相手の為に何かをしてあげたいと思う。そうやって、幸せの循環から人間関係も深まってゆく。
幸せになりたいと思ったならば、まず自分が布施をしてゆく。そうすれば、相手からも布施をしてもらえる。これは布施をすることで、一緒に楽しみを味わうだけでなく、布施をしてもらうことで、また、嬉しい。
布施とは、自分がしてもされても嬉しいもの。だから、心がけて布施をしてゆきたい。布施ができる人間って素晴らしいですね。そんな人になりたいものです。
怒りとは
仏教でいう怒りとは何か?
それは私たちには、自分は他人と比べて価値のある人間だという我があって、それを否定されるようなことをされた時に、自分はそんな価値のない人間だとは認めることができず、自分は本当は価値のある人間なのに、あの人がこんなことをするから、自分の心は傷ついた、だから、あいつが悪いのだと他人のせいにする所から怒りが生まれます。
つまり、怒りとは、自分はそんな価値のない人間ではないと思いたいから、怒るのであって、怒りを起こすのが悪いと、怒った人を責めていると、自分は他人から馬鹿にされても当然の価値の低い人間だと思って、生きている意味が感じられなくなって死にたいと思うようになります。
だから、怒りを起こしている間は自分はまだ価値のある人間なんだという我にしがみついている時であり、怒ることさえもできなくなったならば、それは同時に生きる希望さえも失われて死にたくなってしまうのです。
仏教で怒りから離れるというのは、私は馬鹿にされて当然の価値のない人間だと思えるようになることではなく、どんなに馬鹿にされても、自分は他人から馬鹿にされるような価値の低い人間ではないと自分を肯定的に見ることができるようになったことなのです。
その為には、どんなにまわりの人から馬鹿にされても、この人だけは自分のことを肯定的に見てくれる人が必要です。
その人を仏教で善知識と言います。
善知識だけが、どんなに悪い所を持っていたとしても、その人を否定せずに、自分と同じ人間として見てくれて味方になってくれます。
そういう人に愚痴を吐いて、自分の価値を確認することによって、私たちは自分のことを肯定的に見ることできるようになり、怒りからも離れてゆくことができるようになるのです。


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