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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
安楽声聞菩薩衆
安楽声聞菩薩衆 人天智慧ほがらかに 身相荘厳みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ

阿弥陀仏の極楽浄土に往生した声聞も菩薩も、阿弥陀仏から光明が照らされて、いつも真実が知らされるから、智慧のある仏様と同じように苦しみも障りもなく、穏やかに過ごすことができる。

私たちは環境が悪いから、人生が苦しいのだと思っていますが、苦しみは心から生み出されるもの。どんなに環境が良かったとしても、それを見る心に苦しみがあれば、幸せな環境にいながら、不満や愚痴が次から次へと吹き上がってくる。そして、私はあの人よりも劣っているとか、あの人はあんなに上手くできていいなとか、他人と比べて、喜んだり、悲しんだりする。だから、阿弥陀仏はそんな他人と比べて苦しむ私たちに対して、比べることがないように、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したら、すべて同じ姿にして見せようと誓われているのです。しかし、実際、すべて同じ姿になる訳ではなく、阿弥陀仏の光明に照らされることによって、どんなに他人に誇るような価値を手に入れても、それは自分ではないと知らせ、他人と比べる心から離れさせて下さるのです。

だから、阿弥陀仏に救われたならば、段々と他人と比べて、劣っていたら苦しみ、勝っていたら見下すような心がなくなり、どんな人とも同じ目線で付き合えるようにしてくれるのです。

だから、どちらが優れているか、どちらが劣っているかは問題にならないのです。それが問題になるのは、今まで得た価値をすべて失った何もない自分には価値がないと思っているのです。価値がないと思っているから、必死になって価値を手に入れる。でも、どんなに価値を手に入れても他人が認めてくれなけれぱ、自分は価値のある人間と思えないから、他人と比べて上か下かを問題にして苦しむのです。しかし、どんなに価値を手に入れて、それによって自分は価値のある人間なんだと思ったとしても、臨終になったら、すべて置いてゆかなければならない。結果、何もない自分は価値がないのだと思って、自分で自分を否定して苦しまなければなりません。阿弥陀仏の光明は生きている時から、すべての価値はやがて自分から離れてゆくのだということを知らせ、何もない自分が本当の自分なんだと知らせます。そして、そんな自分でも阿弥陀仏は見捨てずそばにいてくれるので、何もない自分でも価値のある存在なんだと自分を肯定的に見ることができるようになってゆくのです。だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人はどんな環境にいても、そこが極楽と感じ、他人と比べることなく、どんな相手でも敬う心で接してゆくのです。

その心の境地をここでは、姿形が同じになるから、比べることがなくなって、朗らかになるのでと言われ、私たちの世界に合わせて、一人一人に対して名前がつけられるのだとここで書かれているのです。



神力自在なることは
神力自在なることは 測量すべきことぞなき 不思議の徳を集めたり 無上尊を帰命せよ

阿弥陀仏に救われた人は、溢れる泉の如く、説法をすることで今まで自分の知らなかった智慧が次々と溢れ出し、自由自在に教えを説くことができる。それは阿弥陀仏が大宇宙のすべての徳を集めて南無阿弥陀仏を作られたからである。その南無阿弥陀仏を頂いたならば、仏法を自由自在に説くことができるようなり、今まで自分の知らなかった智慧も説法を通して知ることができる。

そんな不思議の徳を集めた無上尊である阿弥陀仏を心から帰命せずにはおれません。
安楽浄土にいたる人
安楽浄土にいたる人 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし

安楽浄土にいたる人とは、阿弥陀仏に救われて阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人のこと。しかし、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したといっても、肉体が死んで浄土に往生した意味ではありません。私たちは浄土とは死んだ後にあるものだと思っていますが、本当の浄土とは別に肉体が死ぬかどうかは関係なく心から煩悩がなくなり、清らかな心に変わったならば、そこが浄土であり、どこにいても阿弥陀仏の極楽浄土にいるのです。

だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人というのは、心から煩悩が無くなった人のこと。その人は生きているまま、人々の苦しみを取り除いてあげたいという菩提心を起こし、この煩悩に塗れた世界に飛び込み、教えを説いていかれます。

この時、阿弥陀仏に救われた人には、説法自在という自由自在に教えを説くことのできる力が阿弥陀仏の本願力によって与えられるので、まるでお釈迦様がこの世に現れたかのように、人々に真実の仏教を説いてゆかれます。

ここでポイントなのは、阿弥陀仏に救われた人は、阿弥陀仏の本願を説くのではなく、お釈迦様と同じように仏教を説かれるようになることです。仏教とは何か?それは仏様の眼から見える世界を私たちにそのまま説かれたものが、それが仏教なのです。例えば、仏様の眼から見たら、この世界はすべて儚き無常に見える。たから、無常なんだと言うことを説かれ、私たちに仏様の眼から見える世界を分からせようとします。そして、聞いた人がこの世が無常なんだと分かったならば、それが念仏なのです。だから、仏教と言っても、仏の眼から見える真実の世界を私たちに説かれただけです。阿弥陀仏に救われたならば、阿弥陀仏から仏の眼を頂くので、そこから見えている世界を私たちに説かれるだけなのです。お釈迦様も仏の眼を頂き説法された。だから、阿弥陀仏に救われた人も仏の眼を頂くので、お釈迦様と同じように自由自在に説法して、人々を救ってゆくことができるのです。
仏光測量なきゆへに
仏光測量なきゆへに 難思光仏のなづけたり 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ


阿弥陀仏の光明は許せない相手も許し、許せない自分も許し、すべての悪を否定することなく、受け入れることによって、少しずつ往生してゆく。


しかし、どんなに許せないものを許してゆかなければならないと頭では分かっていても、いざ感情が吹き上がると、もう許すことなんてできず、相手の顔なんて見たくないとまで思ってしまう。私たちは楽になりたいから、この人嫌だと思ったら、簡単に人間関係を断ち切ってしまう。でも、往生したいと思ったら、切りたいと思った相手とも仲良くしてゆかなければならない。


許せない相手を許す。それは私たちには想像もできないことだから、どんなに許せない相手も許す力を持たれた阿弥陀仏を難思光仏と言われるのです。


だから、諸仏は阿弥陀仏の光明に照らされ、往生できるように、説法をされるのです。


ここで弥陀の功徳を称するとは、阿弥陀仏のお力によって説法すること。その教えによって真実が知らされるので、相手は自分という真実が知らされ、許せない相手も、これも自分の姿と思って許してゆくことができるのです。


光明照らしたえざれば
光明照らしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力のゆへなれば 心不断にて往生す


阿弥陀仏の光明は私たちを照らし途切れることがないから、阿弥陀仏のことを不断光仏と言うのです。


往生する為には、阿弥陀仏に対しての思いが絶えることなく、常に思い続けていることが必要です。そして、阿弥陀仏なことを念ずる為に私たちは阿弥陀仏の慈悲を自らも実践し、相手から冷たくされたとしても、温かい思いを与え続けてゆかなければなりません。


ところが、実際に温かい思いでまわりの人に接しようと思うと、始めはできても、だんだん不満が起きてきて、ちょっとのことでイライラして、相手に当たってしまうことも起きてきます。


そんな時、私の心は阿弥陀仏のことを考えているのではなく、自分の欲しか考えていません。このように阿弥陀仏のことを常に念じていなければならないのに、念じる気持ちが続かない私たちだからこそ、聴聞しなければならないのです。


仏法を聞くと自分のことしか考えていなかった自分の心を反省し、また温かい思いを起こしてゆこうと思うようになります。そして、しばらくすると、また、自分のことしか考えなくなるから、また、聴聞して、相手のことを大事に思えるようにする。そうやって、聴聞を続けてゆくからこそ、私たちは自分の心を阿弥陀仏のように変えてゆき、往生することができるのです。


阿弥陀仏の光明は阿弥陀仏のことを念じなければならないと思いながら、それができない私たちだと知らせて、阿弥陀仏のことを常に念ずることができるように絶え間なく聴聞させて下さるのです。


これが不断光なのです。




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