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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
心の掃除
他人から穢れを受け取るとは、その人から感情を受け取るということ。

その人がイライラしている人ならば、自分もイライラするし、
その人が思い通りにならないことがあると腹を立てる人ならば、自分も思い通りにならないと腹を立てるようになる。

だから、他人から穢れを受け取った時は、自分の言動に注意しなければならない。何故なら、その時の自分というのは、自分らしくない行動をしている時だから。

人間というのは他人からの影響を受けやすいもの。
だからこそ、自分の心をこまめに掃除をして、いつもの自分に戻らなければならない。

心の掃除とは、家の掃除。出したものを元に戻して、元の綺麗な状態に戻すこと。
つまり、家にある反位のものを定位に戻すことによって、自分の心も元に戻る。
心は他人の穢れを受けて影響を受けやすいからこそ、心も掃除もこまめにしてゆかなければならないのですね。
アカを除かん
生きている中で、他人の言動が気になって、こうされるのが嫌だから、相手に直してもらいたいと思うことがある。

でも、嫌だと伝えても、相手が直してくれる訳ではない。

そういう時、私たちは腹を立てて、相手を責めたり、それができない相手ならば、誰かに愚痴を吐いて、相手を責める。

でも、仏教では、嫌だと感じたのは、自分だから、その自分の為に自分自身が動きなさいと教える。

しかし、この言葉を聞いて、そうだな、自分の為に動いてあげるかと思える人は、存在価値の高い人だけ。
存在価値の高い人は、自分の存在を大事だと思っているから、日頃から自分の思っていることに対して、わざわざ自分の為に動いてあげることができる。
だから、嫌だと思うことに対して、他人が動いてくれないなら、自分が動いたらいいと思って、気持ち良く動くことができる。

それに対して、存在価値の低い人は、自分の存在を大事だとは思えないから、自分が嫌だと思っても、わざわざ自分の不満の解消の為に自分が動いてあげようとは思えない。
だから、そういう人は、なるべく自分が動かずに他人が動いてくれたらいいと思う。

そして、このような人は、自分の為に自分が動くことはないから、いつまでも自分の存在価値は高くならない。
その為、いつまでも自分のことを大事だとは思えないのである。

では、このような人がどうしたら自分の存在を大事だと思えるようになるのか。
それは、誰かに自分の存在を大事にしてもらわなくてはならない。
ここで大事にされるとは、自分がわざわざ動いたことに対して、こんなことを頑張ってやったよと言って認めてもらうこと。

私たちは他人から自分の存在を認めてもらうことによって、自分自身のことを大事だと思えるようになる。
だから、自分のことを大事に思えない人は、まず他人から自分のことを大事にしてもらうことから始める。

この時、間違えてはならないことは、認めてもらうことは、こんなことが気になった、嫌だったと思ったことに対して、それが他人が汚したことであっても、自分が動いた時。
この時、私はこんなにも頑張ったということを相手に伝えて認めてもらう。

もちろん、伝える相手は自分のことを認めてくれる人。誰でも伝えていいものではない。

だから、自分の身近に自分のことを認めてくれる人がいたら、その人は、幸せな人。私たちはついついその人のことを軽く扱ってしまいがちですが、本当はその人は自分にとってかけがえのない人だから大切にしないといけない。

自分の存在価値を上げるには、自分のことを認めてくれる人が必要。
そんな人の存在を大事にすることで私たちは自分の存在価値も高くなり、自分の為に腰軽く動くことができるようになるのです。
反位と定位
物事にはすべて定位と反位がある。

たとえば、物はしまってある状態が定位であり、出しっぱなしにしている状態が反位。
また、窓は開けている状態が反位であり、閉めている状態が定位。
これだけでなく、すべてのものに定位と反位がある。

この反位のものを反位のままにしておくことによって、問題が起きる。だから、私たちは何が反位であるかを正しく理解して、反位を定位にしてゆかなければならない。それができないと心は言い知れない不安に襲われる。
いつも何か得体の知れないものが自分を追い立てているような感じがして、何をやっても心は安心することなく、不安になる。

だから、心から安心したいのならば、何が反位なのかを正しく知り、反位を定位に戻すことが大切。そして、それ以上に何が反位なのかを正しく知ることが必要です。私たちは今の自分を知らない為に反位が反位と分からない。

反位を反位と知る為には今の自分を正しく知ること。自分の時間を管理してみるとか、自分のお金の収支を把握するとか。今の自分を知る。そうすることで、今の自分に必要なことが分かり、心も落ち着く。

不安は今の自分の姿が見えない所から生み出されるものなのですね。
我見
私たちは自分一人で自分の存在を感じられない。だから、他人から自分がどう見られるかによって自分とはどんな人間なのかということをイメージしている。こうやって出来上がった自分とはこうい人間なんだというセルフイメージを仏教では我という。
そして、人間の一生というのは、この我に縛られる。私たちは人生をどう生きているかと言えば、自分の作ったセルフイメージを崩さないように、そして、より価値のある人間と見てもらえるように生きている。
そして、このセルフイメージを崩されるようなことがあったとしたら、人は感情的になって怒りをぶつけたり、そんな価値のなくなった自分を受け入れたくなくて、自殺をしたりする人もいる。それほど、私たちにとって大事なものは、この我というセルフイメージ。

でも、それはあくまでもこの我というのは、自分の中でこういうものが自分だと思っているだけで、本当の自分ではない。だから、どんなに我に執着したとしても、死んでゆくときにはすべて崩れ去り、今までの人生は何だのかと後悔の涙を流して死んでゆくことになる。

我は大事なもの。でも、この我を離れた本当の自分を知ることが私たちが死ぬまでにやらなければならないことなのである。
当たり前の付け所を間違えると穢れる。
当たり前の付け所を間違えると穢れる。本来は全部自分でやって当たり前なのに、それを他人にやってもらうとだんだん自分のことでもやってもらって当たり前になる。本当なら自分でやっらなければならないことをやってもらっているのだから、感謝してもいい筈なのに、それで浮いた時間を欲に流れてしまうと、心が穢れて、心は思い通りに物事が進んで当たり前になる。自分のやるべきことをやってもらいながら、それが思い通りにならないと不満の心が起き、相手を責める。
心に不満の心があるならば要注意。それは誰かに自分のやるべきことをやってもらいながら、当たり前になって欲に流れているサイン。
そこに気がつけたならば、心がけて自分のやるべきことをしてもらった時に感謝してゆく。それしか不満の心から離れる道はないのですね。



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