幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
面倒臭いからやる

心が穢れると自分の心でありながら、自分でコントロールすることができなくなる。

頭でこうしなければならないと分かっていても面倒臭くなって、やるべきことを後回しにする。

この面倒臭いという心が起きている時は、心が面倒臭いという心によって支配されている時。

この面倒臭いという心は自分の心でありながら、自分の心ではない。自分の心に取り付き、支配している心。

この心に動かされて、面倒臭いからと言って、やるべきことを後回しにすると、心はもっと穢れて、面倒臭いことをますますやらなくなる。

やがて穢れ過ぎると、面倒臭いことは、てこでもやらなくなる。そして、どこどこまでも穢れてゆく。

だから、面倒臭いと思ったならば、その心に任せず、その心を断ち切る為に、やりたくないことでも、やってゆかなければならない。

そうしないと、心に生えた面倒臭いという雑草は、どんどん育って、自分の心を穢れさせてゆく。

心の掃除はこまめにやってゆかなければなりませんね。


苦しみは心が生み出す

苦しみも幸せも自分の心が生み出す。そして、苦しみとは自分の存在が否定された時に感じる。

でも、仏教から言ったならば、自分の存在を否定する存在も自分の心が生み出した映像。

自分の作り出した映像に自分が恐れ、避けるから。いつも恐れているものに自分が追われ、自分の存在さえも否定されているように感じて苦しむ。

私たちは自分の心によって生み出した映像と向き合い、恐れを取り除かなければならないのだが、唯識が分からない私たちは現実の相手が自分を苦しめていると感じて、その相手を否定したり、小さく見たり、軽く見ることによって、自分の心を楽にさせようとしてしまう。

そうやって、相手に送った思いは自分に跳ね返り、自分が相手を否定したならば、否定されているように感じて苦しむし、相手を無視したならば、自分が今度は無視されているように感じて苦しむ。

すべて自分が相手に向けて放った感情は自分へと跳ね返り、自分を苦しめる。

他人は結局、自分であり、どんなに相手が自分の存在を否定してきたとしても、自分は相手の存在を否定せず、自分で自分の存在を否定することもしない。そうすることによって、どんな環境にいても、苦しむことのない心の境地へと出ることができるのです。


正義とは茨の鞭

自分なりの正義に従っている人は、いつも自分はこんなにも頑張っているという気分になる。

それは真実から言えば、自分の作り出した罪悪の縄に縛られて苦しんでいるだけなのだが、当の本人は、そんなことは分からず、自分はこんなにも頑張っているという所に立つ。

そして、自分はこんなにも頑張っているのだから、まわりの人も自分の正義に従って動けと思うようになる。

きっと自分だけ正義に縛られて、正義に責め立てられて動くのは、嫌だから、自分のまわりの人も正義に縛られて欲しいし、相手が自分の正義に反した時は容赦なく相手を責める。

この時の気持ちは自分も正義に従って頑張っているのだから、お前だけ正義に従わず、いい思いをするのは許さないという気持ちで責める。

そうやって、責めるから、自分も責められているように感じて、いつも正義に追い立てられるようになり、ますます頑張るようになる。

そして、頑張るようになると、自分はこんなにも頑張っているのだから、自分のやっていることは正しいという所に立って、ますます自分の正義に合わない人を責めてしまう。

正義を持つ人は、その正義によって自分が縛られ、正義に責められながら、頑張るようになる。

それは目に見えない正義によって責め立てられているから、いつも心は楽にはならず、頑張り続けなければならない。

こういう人は、誰よりも楽を求めながら、自分の心は楽にならず、まわりの人で楽しそうにしている人がいたら責め立てる。正義とは自分の心を縛り、責め立てる茨の鞭のようなものなのですね。


正義を持つ人

自由に振る舞いたいと思う人ほど、自分なりの正義を持っている。そして、自分も正義に従って生きているのだから、まわりの人も自分の正義に従いなさいと、自分の正義を強要する。

なぜ自分の正義をそんなに押し付けるのか?

それは自分も含めて、まわりの人も正義に従って動いていたら、自分はまわりの人に気を遣わなくていいから。

この人にとって、他人に気を遣うということは、自分の思いを邪魔されることのように思っている。そして、この人にとって自分の思いを邪魔されることは、まるで自分が自分のしたいことをすることさえも悪いことのように感じて、自分を否定してしまう。

だから、自分が悪い人間になって否定されたくない。そういう気持ちから、他人に自分の思いを邪魔されたくない。だって、自分は正しいことをしているのだから、と自分を正当化して、どこどこまでも自分の思いを通そうとする。これが正義の人の姿なのです。


馬鹿にする

よく馬鹿にされたくないという人がいるが、そういう人はなぜ馬鹿にされたくないと言えば、他人を馬鹿にしているから。

では、他人を馬鹿にするとはどういうことなのか?

それは他人の存在を小さく見て、その人の存在を無視すること。私たちは他人に振り回されることなく、自由に振る舞いたいと思うから、他人の存在を無視する。これが馬鹿にすること。多くの場合、こういう人に限って、他人の目を気にして、他人から悪く思われないように気を遣う。気を遣うから、他人と一緒にいると安心できない。それで一人になりたいと思うし、まわりの人が自分に気を遣ってくれたらいいと思う。

他人に気を遣う人ほど、他人に振り回されることなく、自由になりたいと思う。だから、結果的に自由に振る舞う為に他人の存在を無視する。これが他人を馬鹿にすることになる。そして、自分が他人を馬鹿にした分だけ、他人から馬鹿にされると、まるで自分がいなくてもいいように感じて、寂しくなり、自分はここに存在しているということを主張したくて、怒りを起こしたり、強く言ったりする。結局、馬鹿にされたと感じて腹を立てるのは、自分が他人を馬鹿にしているからなのだが、当の本人は自分のやりたいことをやって何が悪いと思っているから、自分が他人を馬鹿にしていることには気付かない。それどころか、自分はこんなにも他人に気を遣っているのにとさえ、思っている。

だから、他人を馬鹿にすることはやまらないし、自分が馬鹿にした分だけ、まわりの人が自分の存在を少しでも無視したり、軽く見るようなことしただけで、怒りを起こし腹を立てる。

自由に振る舞いたいという心。それが馬鹿にする根源なのですね。




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