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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
顔容端正たぐひなし
顔容端正たぐひなし 精微妙躯非人天 虚無之身無極体 平等力を帰命せよ 

阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたならば、どうなるか?

それは阿弥陀仏のお力によって、どんな人も素晴らしい姿になると教えられている。だからと言って、肉体がある訳ではないから、何かの形を持っている訳ではない。これを虚無之身無極体と言われる。姿形を持っている訳ではないが、その心が姿となって現れる世界が死後の世界。阿弥陀仏は阿弥陀仏に救われた人の心を素晴らしい心に変えて下さり、浄土へ往生させてくれるから、極楽浄土に往生した人は皆素晴らしい姿になるのです。そんな差別なく素晴らしい姿に変えて下さる平等力を持たれた阿弥陀仏に対し、心から帰命してゆきなさいと教えられたご和讃です。
責めることよりも温かい心を与えてあげる
人のことを無視している人を見ると、その人を注意して、その悪を正したいという気持ちが起きる。でも、注意をするということは、その人にとっては自分のことを否定されているように感じてしまう。多くの人は悪をしている人を見ると、その人を否定して、悪を正そうとするが、悪を否定すれば、否定されて人は、自分が悪かったと反省するのではなく、自分は悪い人間だから否定されたように思ってしまう。

だから、悪を否定しても、その人は自分の存在を否定するだけで、悪を直すことはできない。悪を注意して直すことができるのは、自己肯定感のある人だけ、多くの人は責められたくないから直すだけで、その人はできていない人を責めるようになる。もし無視をしている人がいたならば、無視をした人を責めるのではなく、無視をされた人に温かい気持ちで接してゆく。悪い人を責めるのではなく、傷ついた人を癒やしてあげる。

みんな悪い人を責めることで問題を解決しようとする。私も責める心が起きるが、それは手っ取り早く問題を起きないようにしようとする心で、臭いものに蓋をしているだけ。悪い人よりも傷ついた人に目を向ける。責めるよりも、いつも温かい心を相手に向けてゆきたいですね。
安楽声聞菩薩衆
安楽声聞菩薩衆 人天智慧ほがらかに 身相荘厳みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ

阿弥陀仏の極楽浄土に往生した声聞も菩薩も、阿弥陀仏から光明が照らされて、いつも真実が知らされるから、智慧のある仏様と同じように苦しみも障りもなく、穏やかに過ごすことができる。

私たちは環境が悪いから、人生が苦しいのだと思っていますが、苦しみは心から生み出されるもの。どんなに環境が良かったとしても、それを見る心に苦しみがあれば、幸せな環境にいながら、不満や愚痴が次から次へと吹き上がってくる。そして、私はあの人よりも劣っているとか、あの人はあんなに上手くできていいなとか、他人と比べて、喜んだり、悲しんだりする。だから、阿弥陀仏はそんな他人と比べて苦しむ私たちに対して、比べることがないように、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したら、すべて同じ姿にして見せようと誓われているのです。しかし、実際、すべて同じ姿になる訳ではなく、阿弥陀仏の光明に照らされることによって、どんなに他人に誇るような価値を手に入れても、それは自分ではないと知らせ、他人と比べる心から離れさせて下さるのです。

だから、阿弥陀仏に救われたならば、段々と他人と比べて、劣っていたら苦しみ、勝っていたら見下すような心がなくなり、どんな人とも同じ目線で付き合えるようにしてくれるのです。

だから、どちらが優れているか、どちらが劣っているかは問題にならないのです。それが問題になるのは、今まで得た価値をすべて失った何もない自分には価値がないと思っているのです。価値がないと思っているから、必死になって価値を手に入れる。でも、どんなに価値を手に入れても他人が認めてくれなけれぱ、自分は価値のある人間と思えないから、他人と比べて上か下かを問題にして苦しむのです。しかし、どんなに価値を手に入れて、それによって自分は価値のある人間なんだと思ったとしても、臨終になったら、すべて置いてゆかなければならない。結果、何もない自分は価値がないのだと思って、自分で自分を否定して苦しまなければなりません。阿弥陀仏の光明は生きている時から、すべての価値はやがて自分から離れてゆくのだということを知らせ、何もない自分が本当の自分なんだと知らせます。そして、そんな自分でも阿弥陀仏は見捨てずそばにいてくれるので、何もない自分でも価値のある存在なんだと自分を肯定的に見ることができるようになってゆくのです。だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人はどんな環境にいても、そこが極楽と感じ、他人と比べることなく、どんな相手でも敬う心で接してゆくのです。

その心の境地をここでは、姿形が同じになるから、比べることがなくなって、朗らかになるのでと言われ、私たちの世界に合わせて、一人一人に対して名前がつけられるのだとここで書かれているのです。



神力自在なることは
神力自在なることは 測量すべきことぞなき 不思議の徳を集めたり 無上尊を帰命せよ

阿弥陀仏に救われた人は、溢れる泉の如く、説法をすることで今まで自分の知らなかった智慧が次々と溢れ出し、自由自在に教えを説くことができる。それは阿弥陀仏が大宇宙のすべての徳を集めて南無阿弥陀仏を作られたからである。その南無阿弥陀仏を頂いたならば、仏法を自由自在に説くことができるようなり、今まで自分の知らなかった智慧も説法を通して知ることができる。

そんな不思議の徳を集めた無上尊である阿弥陀仏を心から帰命せずにはおれません。
安楽浄土にいたる人
安楽浄土にいたる人 五濁悪世にかへりては 釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし

安楽浄土にいたる人とは、阿弥陀仏に救われて阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人のこと。しかし、阿弥陀仏の極楽浄土に往生したといっても、肉体が死んで浄土に往生した意味ではありません。私たちは浄土とは死んだ後にあるものだと思っていますが、本当の浄土とは別に肉体が死ぬかどうかは関係なく心から煩悩がなくなり、清らかな心に変わったならば、そこが浄土であり、どこにいても阿弥陀仏の極楽浄土にいるのです。

だから、阿弥陀仏の極楽浄土に往生した人というのは、心から煩悩が無くなった人のこと。その人は生きているまま、人々の苦しみを取り除いてあげたいという菩提心を起こし、この煩悩に塗れた世界に飛び込み、教えを説いていかれます。

この時、阿弥陀仏に救われた人には、説法自在という自由自在に教えを説くことのできる力が阿弥陀仏の本願力によって与えられるので、まるでお釈迦様がこの世に現れたかのように、人々に真実の仏教を説いてゆかれます。

ここでポイントなのは、阿弥陀仏に救われた人は、阿弥陀仏の本願を説くのではなく、お釈迦様と同じように仏教を説かれるようになることです。仏教とは何か?それは仏様の眼から見える世界を私たちにそのまま説かれたものが、それが仏教なのです。例えば、仏様の眼から見たら、この世界はすべて儚き無常に見える。たから、無常なんだと言うことを説かれ、私たちに仏様の眼から見える世界を分からせようとします。そして、聞いた人がこの世が無常なんだと分かったならば、それが念仏なのです。だから、仏教と言っても、仏の眼から見える真実の世界を私たちに説かれただけです。阿弥陀仏に救われたならば、阿弥陀仏から仏の眼を頂くので、そこから見えている世界を私たちに説かれるだけなのです。お釈迦様も仏の眼を頂き説法された。だから、阿弥陀仏に救われた人も仏の眼を頂くので、お釈迦様と同じように自由自在に説法して、人々を救ってゆくことができるのです。


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