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幸せのこころとかたち
やっぱり幸せって続けることによって、得られるものだと思うんです
大事なことは教えを実践すること
私たちは過去を振り返ると、今までの自分の人生はあっという間に過ぎていったと感じるのに、未来に向かっては、まだまだあると思ってしまう。

だから、死を遠くに眺めて、まだまだ死なないと思ってしまう。

本当は死も遠い先のことではないのに、どんなに歳をとっても自分が死ぬとは思いません。

だから、仏教では、整理をして、日常生活に目を向けなさいと教えられます。

日常生活に目を向けた時、毎日が同じことの繰り返しだと知らされます。この同じことの繰り返しというのが、大切なことで、同じことの繰り返しを続けてゆくことで、私たちは容易に未来のことも考えることができます。

私たちは人生いろんなことをやって死んでゆくと思いますが、同じことを繰り返してゆくことで、こうやって同じことを繰り返してゆくうちに十年二十年が過ぎてゆくように感じます。

だから、これからどれだけ長生きをしたとしても、同じことを繰り返して、その次に死が来ると感じるのです。

この同じことの繰り返しは、遠くにあった死を身近なものにしてくれる。否応なしに死を考えずにはおれなくさせます。

本来は整理をして日常生活に力を入れることは出家の人がやること。それを在家であってもやってゆくことで、出家の人と同じ修行ができます。

仏教は出家の教えと思われがちですが、修行の中身さえ分かれば、在家でもできる。

大事なことは出家、在家とこだわりがちですが、大事なことは、教えを実践すること。

教えを実践するから真理が知らされる。

死を意識することができるようになるのです。
菩薩
菩薩は他人を幸せにしてあげたいから、自ら困難な所に飛び込む。

今の自分の力では、まだまだ足りないと思い、他人を幸せにするには自分が力をつけてゆくしかないと思うから、常に修行に励む。

苦労を苦労と思わず、苦しみを忍び、努力を惜しまず頑張ってゆく。

すべては人を幸せにしてあげたいから。

菩薩の原動力は、他人を幸せにしてあげたいという心。

その心がすべての活動が始まるし、終わりなく続いてゆく。

幸せは幸せにしてあげたいと思う人から始まる。

誰かが動き出さなければ、幸せな世界は生まれない。

それをたとえ一人になってもやってゆく方が菩薩。

そんな菩薩の一人に私もなりたいです。
知らずに犯す罪と知って犯す罪
よく世間では、悪いと知っていてやったならば、その罪は重いけど、悪いと知らずにやったならば、その罪は軽いと思われています。

しかし、仏教では、知って犯す罪よりも知らずに犯す罪が重いと教えられます。

それは悪いと知って犯す罪は、その報いの恐ろしさを知っているから、悪を造る時も、思いっきりやることができず、手加減してやります。

反対に悪いと思わなくて犯す罪は、その報いが自分にやってくると思わないから、思いっきりやってしまいます。

どんなに悪いと知らなかったとしても、思いっきりやった罪は、思いっきり返ってきます。

仏教では、自分が見ている相手は自分の心に映し出した映像に過ぎないから、どんなに悪人でも、その人を責めたならば、自分の心が傷つき、苦しみが生み出されます。

しかし、私たちは目の前にいる相手が自分の心に映し出される映像だと分からないから、その人は自分とは違うと思って、思いっきり責めてしまいます。

もちろん、責めたからと言って、その時は苦しむことはありません。それは、私たちには分別心があって、善人と悪人を分けているからです。

その為、悪人に対してやったことは、自分が善人でいるうちには返ってはきません。だから、悪人を責めても自分が苦しむことはないから、自分は悪人になることはないと思って、思いっきり責めてしまいます。

ところが、そうやって責めたことは、自分が悪人になった時に返ってきます。

一口に悪人になると言いますが、これは自分のことを悪人だと感じた時であり、たとえ私が悪いことをしなくても、まわりの人が私の言動を見て、いい顔をしなかっただけで、何か自分が悪いことをしたんじゃないかと思って、自分のことを悪人のように感じてしまうのです。

そうなると、自分が悪人に対して思ったことが自分へと返ってきます。そして、自分が善人に立って、悪人に対して思いっきり傷つければ傷つけるほど、自分が悪人になった時に深く心が傷つき苦しまなければなりません。

でも、私たちは自分が悪人に対してやったことが自分に跳ね返ってくると思わないので、自分が善人の時は、目の前の悪人は自分じゃないからと思って、思いっきり傷つけるようなことを思ってしまうのです。

これが知らずに犯す罪と言うことです。

お釈迦様は知らずに犯す罪と知って犯す罪についてこのように言われました。

ある時、お釈迦様はお弟子に、この焼け火箸を焼け火箸だと知らずに握るのと、焼け火箸と知って握るのとでは、どちらが重いやけどをするかと尋ねられました。

それに対してお弟子は、それは焼け火箸と知らずに握る方が重い火傷をしますと答えられました。

それに対してお釈迦様は、そうだ、焼け火箸だと知らずに握るから、思いっきり握ってしまう。だから、重いやげどをするのだと答えられました。

私たちは目の前の悪人は自分ではないと思っています。だから、その相手が傷つこうが苦しもうが自分には何も関係ないと思っています。しかし、そうやって、相手に対して思ったことは、天に唾を吐くように自分の元へと返ってきます。

それは手加減したら、手加減して返ってくるし、思いっきりやったら、思いっきり返ってきます。

それは知らなかったからと言って、罪は軽くなることはないのです。

しかも、多くの場合、自分が詰みが造った時にすぐに返ってくる訳ではありません。悪人に対してやったことは、自分が悪人になるまで返ってはきません。

だから、悪を犯しても苦しくないので、それが苦しみを生み出す罪なんだと分からず、思いっきりやってしまうし、繰り返してやってしまう。そして、それが報いとなって返ってきた時には、耐え難い苦痛となって身に降り注ぐのです。

だからこそ、私たちは仏法を聞いて、自分が知らずにやっていることが如何に恐ろしい罪であり、未来私を激しく苦しませることになるかを知らなければならないのです。

知らずに犯していた罪の恐ろしさを知ることで、たとえすぐにやめることができなくても、思いっきりはできなくなります。そして、手加減してやることで、報いとなってやってきても、そこまで苦しむことは無くなるのです。

悪を知っているだけでは意味がないと言う人がいますが、その罪の恐ろしさを知ることが何よりも大切なことであり、報いを軽くすることができるのです。

私たちは業があるので、分かっていても、すぐにはやめられません。でも、その罪の恐ろしさを知ることは、受けてゆく苦しみを軽くすることになるのですね。
一人では幸せにはなれない
幸せになる為には、いつも温かい心でまわりの人に接することが必要です。

他人の心を温かくすることで、自分の心も温かくなる。ここにいてもいいんだと思えるようになります。

生きていたら、思い通りにならないことはあります。そんな時でも、自分の心が温かくなれば、何も無い自分だけど、ここにいてもいいんだと思えるようになります。

温かい心とは自己肯定感。それは自分に価値があるとかないとかに関係なく、自分はいてもいいと思えるようになります。

幸せは他人を幸せにしてこそ味わえる。

一人では幸せになれないのですね。
善悪の基準を変えないことが大事
私たちは善はやらなければ意味がないと思っていますが、仏教ではやれなくても、それを善だと分かっているだけで、意味があります。

善をやらなければと思うと、自力になってしまい、やった善で幸せになるどころか苦しむことになってしまう。

また、やろうとしてできないと、できなくていいんだと善悪の基準さえもひっくり返ってしまう。

だから、大事なことはできなくても、それは善だと思い続けてゆくこと。そして、できない自分をダメなんだと責めないことです。

まずは善をすることよりも、善ができない自分を許すことが大事なことなんですね。


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上田祥広

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